ベネディクト16世
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答えが見つからない」と言いつつも「我々は皆さんと共にある」と応えた[20]

またネットにおいては2012年12月にツイッターのアカウントを9言語で取得。ツイッターを「福音を世界に宣べ伝える新しい窓」と位置付け、ツイートを開始した。
教皇庁人事

ベネディクト16世は教皇位につくと教皇庁の人事を発表したが、それは前教皇時代の人々を再任命という形で留任させるというものであった。その中でも最も高位の人事は国務長官でイタリア人のアンジェロ・ソダーノ枢機卿とバチカン市国の知事でアメリカ人のエドモンド・スツカ枢機卿の2人である。

このときの唯一の新人事は教皇自身がついていたポストであり、空位になっていた教理省長官の任命で、事前の予想に反してサンフランシスコ大司教区のウィリアム・ジョゼフ・レヴァダ(英語版)大司教が指名された。レヴァダは新しいカテキズムの編纂者の一人であり、枢機卿団において最も保守的な傾向を持つ人物であるといわれている。教理省長官のポストは教皇庁の中でも影響力が大きく、教皇にとっても自身が長らく務めていたポストである。アメリカ合衆国は世界政治において圧倒的な影響力を持つため、従来教皇庁の有力ポストにアメリカ人がつくことは教会の中立性に影響を及ぼす恐れがあるといわれていた。そのレヴァダは翌2006年3月にベネディクト16世が初めて行った枢機卿任命で枢機卿に親任され、2012年6月に定年のため引退するまで務めた。後任の教理省の長官には、ドイツ人のゲルハルト・ルートヴィヒ・ミューラー(ドイツ語版)が任命された。

2006年6月22日には定年によるソダーノ枢機卿およびスツカ枢機卿の引退願いを受諾、同年9月15日に当時ジェノヴァ大司教のタルチジオ・ベルトーネ枢機卿が新たに教皇庁国務省長官に任命されている。
列福・列聖

2005年5月13日に教皇として最初の列福調査開始を命じている。調査対象は前教皇であるヨハネ・パウロ2世である。通常は死後5年を待たないと列福調査は開始されないが、前教皇は生前から聖人の誉れが高かった上、自身が司式した葬儀時には群衆の間から「Santo Subito」(サント・スビト、イタリア語で「すぐに聖人に」)の大歓声が繰り返し上がったためであった。聖人になるためには長いプロセスをたどらねばならない。初期調査で聖徳を備えていたことが立証されると「神のしもべ」となる。つぎに「尊者」になり、ここで対象者のとりなしによる奇跡が認定されて初めて福者になる。福者になってはじめて記念ミサを行うことができるようになる。

翌5月14日、最初の列福式を執り行った。列福されたのはハワイのマザー・マリアンヌ・コープ(英語版)である。彼女はモロカイ島ダミアン神父の協力者であり、ハンセン病患者のために生涯をささげた。彼女の任意の記念日は1月23日と定められた。ダミアン神父とマザー・マリアンヌはともにHIV感染者の保護者となっている。列福・列聖式を精力的に執り行ったヨハネ・パウロ2世とは異なり、ベネディクト16世はこの在任最初の列福式の司式を列聖省長官ホセ・マルティンス枢機卿におこなわせた。これは列福式のような対外的な業務もさることながら、教会の内的な業務に力をいれたいという教皇の意思のあらわれであり、自らの年齢と健康状態への配慮と識者は見ている。その後ダミアン神父は2009年に、マリアンヌ・コープは2012年にそれぞれ列聖されている。

2005年10月23日にはベネディクト16世による最初の列聖式が行われ、ポーランド人でリバウの司教ヨシフ・ビルツェフスキなどが聖人にあげられた。

2011年1月にはヨハネ・パウロ2世の列福が決定、5月1日には列福式を自ら司式し、ヨハネ・パウロ2世は福者にあげられた。
思想的立場詳細は「w:Theology of Pope Benedict XVI」を参照

「教理の番犬」とあだ名されるほどの保守派の神学者出身[21]。一般に超保守派とみなされている。
エキュメニズムについて

カトリック教会は第2バチカン公会議において、教会がエキュメニズムや異文化理解を促進しなければならないと方向転換をおこなった。教皇はこの思想が行きすぎたものになり、結果として過度の相対主義にいきつくことで、カトリック教会の存在の意味そのものが失われかねないと危惧しているといわれる。第2バチカン公会議以来ミサラテン語の他、各国語で行うことができるようになり、現地の言語によるミサが急速に広まった。こうした中、7月7日、第2バチカン公会議による典礼改革以前のラテン語による最後のミサ典書の使用を限定的ながら認める自発教令「スンモルム・ポンティフクム」を発表した。これは前教皇による第2バチカン公会議前の典礼に親しみを感じる信徒への配慮(1988年に自発教令の形で使徒的書簡「エクレジア・デイ」)に続くものであるが、ラテン語ミサには賛否両論がある[22]
社会教説
ジェンダーについて

2008年12月24日、バチカンで聖職者向けに行った年末の演説で、ジェンダー理論に触れ、男性と女性との区別をあいまいにするとして批判した。この批判には、同性愛者や性転換者の権利が拡大していることへの懸念がある。神が各人に与えた性や性交渉のあり方を歪曲することは、自然破壊と同様であり、結局は人間の「自己破壊」に繋がるという見解である。ジェンダー理論への批判は、同理論の、が(神の生まれつき与えたものではなく)社会的に構成されるという主張に限られている[23]
産児制限、同性愛について

避妊人工妊娠中絶同性愛など社会的問題に対してはいずれも断固反対という立場をとっている。2009年3月にはHIVによる被害が深刻化しているアフリカ訪問中に、感染予防に用いられるコンドームの使用に反対すると述べた。この声明は世界保健機関およびアフリカ各国政府、カトリック教会の一部から強く批判されたため、教皇庁は釈明に追われた[24]。12月24日、クリスマスミサ中に女性に飛びかかられ転倒する[25]
アニメーションやコンピュータゲームについて

2007年1月24日にはアニメーションコンピュータゲームを含む、エンターテインメント作品における過激な性表現や暴力を「卑俗で背徳的であり、不快」と非難する見解を表明している。しかし「人間の尊厳を広めるなど道徳的な内容での使用であればメディアは教育を支援できる」と発言した[26]
他宗教との関係
ユダヤ教アウシュビッツ強制収容所を訪れるベネディクト16世、手前の人物はポーランドのカチンスキ大統領詳細は「w:Pope Benedict XVI and Judaism」を参照

2006年アウシュビッツ強制収容所を訪問した[27]。また2007年オーストリア訪問時にも同国の首席ラビとともに同国内の強制収容所跡を訪問した。2011年にはイエス・キリストの生涯を書いた著書の中で「エルサレムの寺院の上層部とバラバの釈放を望んだ大衆だけがイエスを非難した」としるし、ユダヤ人全体が「キリスト殺し」に責任を負うものではないと結論付けた。マタイの福音書にあるイエスの処刑のくだりからユダヤ人は「キリスト殺し」の咎で迫害されてきており、1960年代にその論理は一旦否定されていたが、再燃を受けてベネディクト16世は改めてこれを否定した[28]
イスラム教詳細は「w:Pope Benedict XVI and Islam」を参照詳細は「w:Pope Benedict XVI Islam controversy」を参照

2006年9月12日、ドイツの大学で行った講義の中で、ベネディクト16世はイスラム教の教えの一つであるジハードを批判する発言を行いメディアから批判を受けた。パキスタン議会は、9月15日に彼に発言の撤回を求める非難決議を全会一致で採択した。なお、発言にはイスラムを邪悪で残酷と評した14世紀の東ローマ皇帝マヌエル2世の「ムハンマドは、剣によって信仰を広めよと命じるなど、世界に悪と非人間性をもたらした」という言葉を引用している。

2007年には就任後初めてイスラム諸国であるトルコを訪れた。前年の「ジハード批判」に反発するデモが発生するなど混乱が見られた。このトルコ訪問ではエルドアン首相、セゼル大統領と会談したほか、イスタンブールスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)を訪問。その後、正教会コンスタンディヌーポリ総主教庁を訪問、総主教ヴァルソロメオス1世と会談した。
プロテスタントと東方正教会

2007年7月10日、教皇庁は「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」との記述内容を含む文書を公表した。これには教皇ベネディクト16世が承認を与えている。同文書はプロテスタント教会についても言及し、「使徒ペテロに始まる使徒的伝承をプロテスタント教会が壊し、叙階の秘跡を損なったために、『教会』と呼ぶことはできない」とした。


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