2013年2月11日、ベネディクトは高齢による「心身の体力不足」を理由に辞任を表明した。教皇の辞任は1415年のグレゴリウス12世以来で、教皇の自発的な辞任は1294年のケレスティヌス5世 以来であった。2013年3月13日にフランシスコに継承され、引退後はバチカン市国にある新装されたマーテル・エクレシアエ修道院に入居した。
ベネディクトは母国語のドイツ語のほか、フランス語、イタリア語、英語、スペイン語にある程度の習熟度があった。また、ポルトガル語、ラテン語、聖書ヘブライ語、聖書ギリシャ語にも通じていた[11][12][13]。また、フランス人文院など、社会科学系のアカデミーのメンバーでもあった。ピアノを弾き、モーツァルトとバッハを好んだ[14]。
教皇就任までの略歴
幼少期から司祭時代ヨーゼフ・ラッツィンガーの生家
ヨーゼフ・ラッツィンガーは1927年4月16日の聖土曜日の午前8時30分、父ヨーゼフと母マリアの次男としてドイツのバイエルン州マルクトル・アム・インで生まれた。父親は警察官であり、母は食堂の手伝いをして生計を立てていた。父ヨーゼフは1937年に退職したが、勃興してきたナチスに対して激しい嫌悪感を抱いていた。兄ゲオルク(ドイツ語版)は、後にヨーゼフと共に司祭職を志して司祭となり、ヨーゼフが教皇になった後も時折会っていたが、2020年7月1日に96歳で亡くなった[15][16]。姉マリアは生涯独身で自身の身の世話をしていたが、1991年に亡くなっている。
親族によれば、ヨーゼフは小さい頃から司祭になることを夢見ていたという。しかし1939年に第二次世界大戦が勃発し、ドイツが戦争一色になると14歳でヒトラーユーゲントへ加入する。当時のドイツでは、「ヒトラーユーゲント法」によって、10歳から18歳までの青少年はヒトラーユーゲントへ加入することが義務付けられていた。1943年には学友と共に対空防衛補助活動に動員され、1944年にいったん自宅へ戻ることができたが、戦況の悪化にともなって再び動員されて歩兵としての訓練を受けた。1945年4月にドイツ降伏後のわずかな期間ウルムの捕虜収容所に収容されていたが、まもなく解放された。
戦後に兄ゲオルクと共にトラウンシュタインの聖ミカエル神学校で哲学と神学を学んだ後にミュンヘン大学でも学んだ。[17]その後、ヨーゼフは1951年6月29日に司祭に叙階され、1953年に『聖アウグスティヌスの教会論における神の民と神の家』という論文で神学博士号を取得。さらに1957年には聖ボナヴェントゥラについての論文を著して大学教授資格を得て、フライジング哲学神学大学(ドイツ語版)に迎えられた。