ベネディクト・アーノルド
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イギリス軍は頭皮、武器などの戦利品を約束したが、何も実行されなかった。イギリス軍は捕虜となって護送中に180人以上が虐殺された。フランス正規軍はそれを止めることができなかった。このできごとは、若く多感であったアーノルドにフランスに対する変わらぬ憎しみを植え付け、彼の後の人生に影響することになった。この戦闘の悲惨な結果を耳にしたアーノルドの中隊は引き返すことになった。アーノルドは13日間だけ従軍したことになった[11]。アーノルドが1758年に民兵隊から脱走したという一般に受け入れられている話があるが[12]、これは不確かな文書に残されたものに基づくものである[13]
両親の死

1759年、アーノルドが特に愛していた母が亡くなり、まだ若い彼が酒浸りの父と若い妹を扶養することになった。父のアルコール依存症は母の死後さらに悪化した。彼は白昼酔っぱらって何度か拘束までされており、教会の聖餐式に出ることも止められた。父は1761年に亡くなり[9]、20歳のアーノルドは家名を昔のように上げる決心をした。
独立戦争前の行動

1762年、ラスロップ兄弟の助けもあり、アーノルドはニューヘイブンで薬剤師と本屋として事業の実績を上げ始めた。アーノルドには大望があり、積極的だったので、商売は急速に拡大した。1763年には、ラスロップ兄弟から借りていた金を返済し、彼の父が負債のかたに売り払っていた家産を取り戻した。さらに1年後、十分な利益を出してそれを売り払った。1764年、アーノルドはニューヘイブンの若い商人アダム・バブコックと共同経営者になった。彼の家産を売った時に得た利益を元手に彼らは3隻の商船を買い、有利な西インド諸島貿易に乗り出した。この間、妹のハンナをニューヘイブンに連れてきて、彼が留守でも薬局をやっていけるようにした。アーノルドは自分の持ち船の1隻を指揮することも多く、ニューイングランド中やケベックから西インド諸島まで商用で旅した。それらの旅の一つでホンジュラスに行ったとき、アーノルドは彼のことを「ばかなヤンキー、紳士の作法も外聞も知らぬ奴め」と罵ったイギリスの船長と決闘した[14][15]。その船長は最初の銃撃を交わしたときに傷つき、アーノルドが2発目の照準を合わせて殺すと脅したときに謝罪した[16]1766年の政治風刺漫画、印紙法の撤廃を伝えている

1764年砂糖法1765年の印紙法は植民地での商売をひどく制限した[17]。印紙法が成立するとアーノルドも反対の声を上げる仲間達に加わるようになり、重荷となるイギリスの議会の法の執行に反対するために暴力を使うことを恐れない秘密結社である自由の息子達にも加わることになった[18]。アーノルドは当初特に大衆運動に加わらずに、多くの商人と同じように、印紙法など存在していないかのように商売を続け、実のところ法律を無視して密貿易業者のようになっていた。政府によって課された抑圧的な税金のために、多くのニューイングランド商人が苦境に追い込まれた。アーノルド自身も個人破産に近い状態になり、16,000ポンドの借金を抱えた。債権者達はアーノルドの破産状態という噂を広げ、アーノルドが彼らに対して法的な措置を取るところまで行った[19]1767年1月28日の夜、アーノルドとその船の乗組員が自由の息子達の群衆に見守られて、アーノルドの密貿易を当局に密告した疑いのある男にけがをさせた。アーノルドは治安を乱した罪で告訴され50シリングの科料を払わされた。この事件に関する報道とアーノルドの見解に対する同情が拡がったことで、軽い罰になった[20]

1767年2月22日、アーノルドはニューヘイブンの保安官で共にフリーメイソンの会員になって知り合いになったサミュエル・マンスフィールドの娘マーガレットと結婚した[21]。翌年に長男のベネディクト6世が生まれ[22]、1769年にリチャード、1772年にヘンリーと3人の息子に恵まれたが[21]、妻は独立戦争初期の1775年6月19日に亡くなった。これはアーノルドがタイコンデロガ砦を奪取してそこに居た時だった[23]。家事は妻のマーガレットが居た時でも、妹のハンナが差配していた。アーノルドは事業の共同経営者になったマンスフィールドとの関係を利用し、その保安官としての地位を使って債権者から守るようにさせた[24]

アーノルドは、1770年3月5日ボストン虐殺事件が起こったとき西インド諸島にいたが、後に「大変な衝撃だった」と書き、「神よ、大陸の人間はみんな眠らされて従順に自由を放棄したのか、あるいはあんな悪党達に仕返しもできない哲学者になってしまったのか」と悩んだと記した[25]
アメリカ独立戦争

1775年3月、ニューヘイブンの市民が65名でコネチカット防衛第2中隊を結成した。アーノルドはその指揮官である大尉に選ばれ、戦争に備えて訓練・鍛錬をおこなった[26]レキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まったという知らせがニューヘイブンに届いたのは4月21日だった。アーノルドの中隊は翌日ボストンに行軍するべく集合したが、町政委員会は火薬を渡そうとはしなかった。アーノルドとデイビッド・ウースターの間の対立の中で(このことは毎年ニューヘイブンの火薬庫の日に再現されている)、アーノルドは年上のウースターに何としてでも火薬を手に入れると主張して説き伏せた。火薬庫が開かれ、アーノルドの中隊は武装できてボストンへの行軍を開始した[27]1776年のベネディクト・アーノルド大佐

途上でアーノルドはコネチカットの議員で民兵隊の大佐であるサミュエル・ホールデン・パーソンズ大佐に出会った。二人の対話の中で、革命軍に大砲が不足していること、シャンプレーン湖のタイコンデロガ砦に多くの大砲があること、その砦を確保するために遠征隊を派遣すべきことなどを話し合った[28]。パーソンズはハートフォードに向かい、エドワード・モット大尉に指揮を任せる軍隊結成のため、資金を調達した。モットは、バーモント(当時はニューハンプシャー特許地として所有権を巡る論争があった)のベニントンで活動するイーサン・アレンとそのグリーン・マウンテン・ボーイズと連携を取るよう指示された。一方、アーノルドとコネチカット民兵隊はマサチューセッツ湾植民地ケンブリッジに向かい、マサチューセッツ安全委員会[29]を説得し、砦を奪取するための遠征資金を認めさせた。5月3日、安全委員会はアーノルドをマサチューセッツ民兵隊の大佐に任命し、マサチューセッツで軍隊を組織すべく数人の大尉をアーノルドの下に付けて派遣した。大尉達が兵士を集める間に、アーノルドは西に向かい、ウィリアムズタウンに到着したときにモットとアレンの活動について知った。そこから北に転じ、5月9日にキャッスルトンに着くと、既にアレンの部隊が集合していた。アーノルドは自分の任官の合法性を主張することで遠征隊の指揮権を得ようとしたが、アレンのグリーン・マウンテン・ボーイズはこのとき遠征隊の中でも最大の部隊であり、アレン以外の誰の指揮下でも行動することを拒否した。アレンとアーノルドの間の個人的な交渉によって、妥協点として2人が併せて遠征隊を率いることになった。
タイコンデロガ砦の戦い詳細は「タイコンデロガ砦」を参照

1775年5月10日、早暁の攻撃で実際の戦闘を行うこともなくタイコンデロガ砦が落ちた。植民地の兵士はイギリス軍の守備兵の方が数が多かったことに驚かされた[30]。続いて近くのクラウンポイント砦とジョージ砦を占領したが、この2つは守備隊の数が遥かに少なかった[31]


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