ベネスエラ(Venezuela)という名の由来には諸説があり、一つはイタリアのヴェネツィアに由来するというものである。1499年この地を訪れた探検者、アロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とアメリゴ・ヴェスプッチが、マラカイボ湖畔のグアヒーラ半島に並び建つインディヘナたちの水上村落を、水の都ヴェネツィアに見立て、イタリア語で「ちっぽけなヴェネツィア」("Venezuola")と命名した事によるとされている。
もう一つは、ヴェスプッチとオヘダの水夫だったマルティン・フェルナンデス・デ・エンシソ(スペイン語版、英語版)が著作の"Summa de Geografia"で、彼等が出会った当地に居住していたインディヘナが当地を"Veneciuela"と呼んでいると言及しており、そこから派生して"Venezuelaになったとする説であり[4]、この説によるとベネスエラという国名は土着の言葉に由来することになる。どちらの説が正しいかという論争は絶えないものの、現在一般的な説として人々に信じられている説は前者である。
国名中の「ボリバル」とは、ラテンアメリカの解放者・シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも表記する)のことである[3]。 ヨーロッパ人がこの地を訪れる前、この地にはアラワク人とカリブ人と狩猟と農耕を行うインディヘナが居住していた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばなかったが、コロンビアのムイスカ人の影響を受けていた。この地から多くの人間がカリブ海諸島に航海していった。
歴史詳細は「ベネズエラの歴史」を参照
先コロンブス期
スペイン植民地時代「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「スペインによるベネズエラの征服
ヨーロッパ人が今のベネズエラと接触するのは1498年のクリストファー・コロンブスによる第3回航海が初めてである。翌1499年にはスペイン人のアロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチが内陸部を探検している。その後スペイン人によって1526年にクマナが建設され、先住民の首長グアイカイプーロとの戦いの最中の1567年にディエゴ・デ・ロサーダ(スペイン語版、英語版)によってサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスが建設された。植民地化当初はヌエバ・エスパーニャ副王領の一部として、イスパニョーラ島のサント・ドミンゴのアウディエンシアに所属していたが、1739年にはヌエバ・グラナダ副王領の一部となり、1777年にはベネズエラ総督領(スペイン語版、英語版)に昇格した。植民地時代のベネズエラ経済はプランテーション制農業からのカカオ輸出に依存しており、クリオーリョ支配層は更なる自由貿易を望むようになった。ベネズエラはアルゼンチンと共にスペイン植民地体制の辺境だったために独立に有利な状況が整い、やがて後のラテンアメリカ独立運動の主導的立場を担うことになった。
独立戦争「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照最初の独立指導者フランシスコ・デ・ミランダ。「解放者」「迷宮の将軍」シモン・ボリバル、スペインから南アメリカの五共和国を独立に導いた軍人、政治家、思想家、革命家。
1789年のフランス革命によりヨーロッパの政局が混乱し、19世紀にナポレオン戦争がスペインに波及するとインディアス植民地は大きく影響を受けた。スペイン本国がナポレオンのフランスによって占領される中、インディアス植民地の各地では自治の動きが活発化した。インディアス植民地各地のクリオーリョ達は独立を企図し、ベネズエラでも1806年にはフランシスコ・デ・ミランダによる反乱が起きた。この反乱は鎮圧されたが、1808年ホセ1世がスペイン王に即位すると、それに対する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発、インディアス植民地はホセ1世への忠誠を拒否し、独立の気運は抑えがたいものになって行った。1810年にはカラカス市参事会がベネズエラ総督を追放。翌年1811年にはシモン・ボリバルとミランダらがベネズエラ第一共和国(英語版)を樹立した。