彼は司法部門を独立させ権力の分散を図り、エヒード制度の下に農地改革を導入した。カランサはメキシコの歴史上で偉大な知性と広い知識を持った人物で、彼のがっしりした体格と丸眼鏡、大きな灰色のあごひげは慈悲深い理想的父親像を与えた。
1916年2月にカランサは憲法草案を公布、翌年2月5日に新憲法が成立。オブレゴンはこの憲法制定手続きに不満を表明し国防相を辞任、政界を引退した。1917年3月11日にカランサは新憲法下の初代大統領に選出された。投票結果はカランサが797,305票、パブロ・ゴンサレスが11,615票、オブレゴンが4,008票であった。カランサは5月に大統領に就任、メキシコ革命は収束に向かった
1919年4月にサパタがカランサの刺客により暗殺、労働者勢力はカランサへの対抗のためオブレゴンに協力を求め、オブレゴンはこれを受け6月に立憲自由党から次期大統領選への立候補を表明する。憲法は大統領の再選を禁止していたため、カランサは自分の後継としてイグナシオ・ボニージャス(英語版)を指名、ボニージャスはマサチューセッツ工科大学を卒業し駐米大使を経験したインテリだったがスペイン語が話せなかった。ルイス・モロネスの指導する労働者地域連合 (CROM) を母体とした労働党、国民協同党、ユカタン社会党がオブレゴンを支持したが、翌年1月にカランサはオブレゴンを逮捕しようとし、オブレゴンはソノラ州に逃亡した。
3月になると反ボニージャス活動が激化し、鉄道労働組合はサボタージュによりボニージャスの遊説列車を脱線させるなど妨害活動を行ったがカランサはこれに対し強圧策で対応、労働者を逮捕、殺害した。カランサは労働組合の争議鎮圧を口実にソノラ州に軍を派遣し、これに対しソノラ州知事アドルフォ・デ・ラ・ウエルタがソノラ独立共和国を宣言する。ソノラ州の立憲自由軍はカランサに対して宣戦布告、国内は再び内戦状態となり、ビリャ、サパタ派も立憲自由軍を支援した。立憲自由軍は5月にメキシコシティに侵攻、カランサはベラクルスで臨時政府の樹立を試み特別列車に資産を積み込み逃亡するが5月21日プエブラ州のトラスカラントンゴで同地の有力者ロドルフォ・エレーロ(英語版)のだまし討ちに遭い、就寝中に暗殺された。オブレゴンはエレーロの行為を非難し、彼を裁判にかけた。
1981年に発行された100ペソ紙幣に肖像が使用されていた。
関連項目
メキシコ革命
サンディエゴ計画
エルミラ・ガリンド
外部リンク
⇒Venustiano Carranza on Mexconnect.com
先代
フランシスコ・カルバハルメキシコ合衆国大統領
1915 - 1920次代
アドルフォ・デ・ラ・ウエルタ
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