その中で特筆されるのはウラジーミル・レーニンの秘書を務めたウクライナ人女性アンジェリカ・バラバーノフとの出会いであった[34][35]。当時から難解さを知られていたマルクス主義を完全に理解できている人間は社会主義者や共産主義者の間ですら限られていた。ムッソリーニは狂信的なマルクス主義者であるバラバーノフからマルクス主義の教育を受け、社会主義理論についての知識を得た[34]。またレーニン自身もムッソリーニの演説会に足を運んだことがあった[34]。レーニンはムッソリーニを高く評価し、後にイタリア社会党が彼を除名した際には「これでイタリア社会党は革命を起こす能力を失った」「あの男を追放するなんて君らはバカだ」とまで叱責している[36]。レフ・トロツキーも同時期のレーニンと同行していて、ムッソリーニと面識があったとする説もある[37]。
放浪中の生活体験はイタリア語とともに話されているドイツ語・フランス語などの多言語能力を習得する良い機会にもなった[38]。語学を生かして様々な文献を読み漁ってジョルジュ・ソレル、シャルル・ペギー、フリードリヒ・ニーチェ、エルネスト・ルナン、ギュスターヴ・ル・ボンらの思想を学び[39]、ローザンヌ大学の聴講生としてヴィルフレド・パレートらの講義に出席するなど、政治学への興味と教養を高めていった[40]。特にソレルの思想には多大な影響を受け、後に「ファシズムの精神的指導者」「私の師」「私自身はソレルに最も負っている」とまで賞賛している[5][5][41]。ムッソリーニは本格的に政治運動へのめり込み、スイスのイタリア語圏で労働運動に加わった[42]。ローザンヌでイタリア系移民による労働組合の書記を務め、イタリア社会党系の機関紙『ラッヴェニーレ・デル・ラヴォラトレーレ(労働者の未来)』の編纂に参加し、アメリカ合衆国内のニューヨーク党支部の機関誌『プロレタリアート』からも依頼を受けて寄稿している[43]。
1903年、チェゼーナの農学校を卒業した弟アルナルドとスイスで同居するようになり、二人でイタリア語教師として働いたり記事を執筆したりしていた。同年に発生した大規模なゼネストに参加してスイス警察にマークされ[44]、1904年4月、ローザンヌ市滞在中に書類偽造の容疑で拘束されて国外追放処分を受けるが[42]、イタリア社会党だけでなくスイス社会党も反対運動を展開したために滞在が急遽許可された[40]。この時に右派系の新聞から「ジュネーブにおけるイタリア社会党のドゥーチェ(統領、指導者)」と批判的に呼ばれた。程なくこの「ドゥーチェ」という綽名は好意的な意味合いで彼を指す際に用いられるようになった[45]。徴兵義務期間を海外で過ごしたことを理由に今度はイタリアで欠席裁判による禁固刑が宣告されたが、サヴォイア家の跡継ぎとなるウンベルト2世の誕生を祝って恩赦が布告された[46]。 1905年1月、イタリアに帰国したムッソリーニは自ら兵役に応じると申し出て、王国陸軍の第10狙撃兵(ベルサリエーリ)連隊に配属された。入隊間もない1905年2月17日、母ローザは危篤状態となり急遽プレダッピオに戻ったが、2日後の2月19日に亡くなった。軍隊では反体制派の人物としてその真意が疑われて監視を受けたが、間もなく模範兵として評価されるようになる[47]。兵役の間も勉学を続け、ドイツロマン主義、ドイツ観念論、ベルグソン、スピノザについて研究した。1906年9月、兵役を終えて除隊し、オーストリアとの国境に近いヴェネツィア北東の小さな町トルメッツォで教師に復職した。1907年11月、中等教育課程の教員免状を取得すべくボローニャ大学で筆記試験と口頭試問を受け、合格して外国語(フランス語)の教員免状を取得した[48]。 1908年3月、ジェノヴァ近郊のオネーリア
帰国後の活動
未回収のイタリアの一角を占めながら、イタリア系住民の運動がさほど組織化されていなかったトレントでムッソリーニは政治運動を展開し、半年の間に100本以上の記事を掲載するという猛然たる勢いで反オーストリア・反カトリック・反王政を説く左派的な民族主義を喧伝し、キリスト教民主主義のイタリア語新聞『トレンティーノ』を「オーストリア政府の手先」として非難した。熱烈な扇動によって『労働者の未来』の購読者は大幅に増え[52]、オーストリア政府から発禁処分を受けている[53]。