ベニート・ムッソリーニ
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ムッソリーニは戦争が民族意識を高めると好意的に見ていたが[71]、国力や軍備に不足があると考えていたこともあり[注 5][72]、党幹部として一旦はこの決定に従った[73]。サンディカリスト、共産主義者、共和主義者、アナーキストまで全ての革新勢力が社会党に助力したこの暴動は軍によって鎮圧された。イタリア社会党には腐敗した旧体制を一変させる組織力や気概がないという懸念が証明されてしまい、ムッソリーニも暴動は混沌を生んだだけだと指摘している[74]

同年の夏に大戦が始まるとイタリアは局外中立を宣言した。左派内では革命的なサンディカリストの勢力が革命行動ファッショ(英語版)を結成して積極的に参戦を訴えたが、イタリア社会党は社会愛国主義の広がりによって欧州で挫折しつつあった国際主義反戦主義を未だに主張していた[75]。1914年10月18日、ムッソリーニは社会党の路線を見限って『アヴァンティ!』に参戦を主張する長文論説「絶対的中立から積極的効果的中立へ!」を発表、党内で持論を説き始めた[71]

ムッソリーニはオーストリアハプスブルク王朝との戦いをイタリアの宿命とする国家主義・民族主義者の主張を支持し[73]ハプスブルク家(およびホーエンツォレルン家)を中心とする中央同盟を「反動的集団」として糾弾することで社会主義者の参戦運動を正当化した[76]。ムッソリーニを含めたイタリアの反教権的社会主義者にとってはバチカンが親オーストリア=ハンガリー帝国であるという通念もあった[77]。また封建的なハプスブルク家やホーエンツォレルン家、更にはオスマン帝国スルタン制を崩壊せしめることは異国の労働者階級を解放することに繋がり、国際主義的にも社会主義を前進させられると主張した[76]。連合国にも封建的なロシア帝国のロマノフ家が含まれているという反論には、「戦争による動員が君主制への権威を削ぎ落し、同地の社会主義革命を後押しするだろう」と返答している。

10月20日の党中央委員会で論説の否決に対して『アヴァンティ!』編集長を辞任した[78]。11月18日、独自に社会主義日刊紙『イル・ポポロ・ディターリア(イタリア語版)』を発行して協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開した[78]。同紙は発行部数8万部に達した。資金源には様々な噂や中傷が飛び交い、ボローニャの日刊紙イル・レスト・デル・カリーノ(イタリア語版)編集長フィリッポ・ナルディ(イタリア語版)や[78]ゼネラル・エレクトリックフィアット、アンサルディといった大資本[78]、さらにはイタリアへの参戦工作を行っていたフランスイギリス政府からの資金援助、そして当時の外相アントニーノ・カステロ (サン・ジュリアーノ侯爵)(イタリア語版)からの援助があったと見られている。11月24日、イタリア社会党はムッソリーニに除名処分を行った[78]
参戦運動

参戦論への転向はしばしば「経済的理由」「栄達への野心」などが理由であると批判的に語られるが、実際には戦争を革命(現体制の転覆)に転化するというこれまで通りの思想のためであったと歴史家レンツォ・ディ・フェリーチェ(イタリア語版)は指摘している[78]。そもそもムッソリーニは最初から民族主義者にして参戦論者であり、現実的な軍備や外交を見て反対していたに過ぎない[72]日和見主義という批判はムッソリーニの離党後の混乱に危機感を抱いた社会党指導部の中傷による部分が大きいと考えられている。事実、ムッソリーニ除名前の1914年には5万8326名が存在した社会党員はたった2年後には半数以下の2万7918名にまで急減している[79]。これは祖国の戦争について「支持も妨害もせず」という空虚なスローガンで乗り切ろうとした社会党に不満を持っていったのはムッソリーニだけではなかったことを示している[79]

もしイタリア社会党が社会愛国主義を掲げて参戦論を主導すれば政権を得ていた可能性すらあった[79]。レーニンが指摘するようにイタリア社会党は革命を起こす機会を自ら捨ててしまった。

社会党除名後もムッソリーニは基本的な政治的立場は革新主義であるという立場を維持し[78]、先述の「革命行動ファッショ(英語版)」という「革命」という言葉を冠した組織(ファッシという言葉は社会党時代にも使っていた)に加わって参戦運動を展開した。これが戦後に設立された「イタリア戦闘者ファッシ」の土台となる。社会党指導部の誹謗中傷に対してもムッソリーニは毅然と対決姿勢を見せ、時にはフェンシングによる決闘という古風な方法で対峙したことすらあった。その一人は因縁のあるクラウヴィオ・トレヴィスで、『アヴァンティ』編集長に復帰して『イル・ポポロ・ディターリア(イタリア語版)』と激しい論戦を繰り広げた末のことだった。死人が出かねない勢いでの両者の切り合いとなり、途中で仲裁が入って引き分けとなった[80]
従軍第一次世界大戦に従軍した当時のムッソリーニ

1915年5月24日、イタリアが秘密協定に基づいて連合国側で参戦すると、ムッソリーニは他の参戦論者たちの例(参戦論者の多くは持論の責任を果たすため、積極的に従軍した)に習い、徴兵を待たず陸軍へ志願入隊しようとした。政治経歴に加えて年齢が三十代前半になっていたことから入隊審査は長引いたが、この戦争が総力戦であるとの認識が広がると軍も思想や年齢を問うことはなくなり、1915年8月31日に念願の召集令状を受け取った[81]。より年上の参戦論者ではダンヌンツィオが52歳、かつての政敵で参戦論についてはムッソリーニに同調していたヴィッソラーティが58歳という高齢でそれぞれ従軍を許可されている。師範学校出身者は士官教育を受ける権利があったが、過激な思想を警戒するアントニオ・サランドラ首相の判断で認められなかった。

1915年9月3日、かつての兵役時代と同じくベルサリエリ兵として第11狙撃兵連隊第33大隊に配属され、厳寒のアルプスで塹壕戦や山岳戦を経験した。1915年11月15日、パラチフスを患ってベルガモの軍事病院へ後送されたが、翌月には前線へ戻った[82]。ムッソリーニは絶え間なく続く戦闘と砲撃の中で過ごし、前線の山岳戦闘や塹壕戦で勇敢な戦いぶりを示した。1916年3月、伍長に昇進してイソンヅォ戦線の南部に移動して斥候部隊に異動し、砲撃や機関銃の銃火を掻い潜りながら敵部隊の偵察任務に従事した。1917年2月、軍曹に昇進。上官の推薦状において「彼の昇進を推薦する理由は軍における手本とするべき行動――勇敢な戦い、落ち着き払った態度、苦痛に対する我慢強さ、軍務に対する熱意と秩序ある行動を見せたことによる」と称賛されている。過酷な塹壕戦が各国の兵士たちに連帯感を持たせ、思想や立場を超えて愛国心や民族主義が高まりを見せた。イタリアでは退役兵たちが全体主義を牽引した「塹壕貴族」(トリンチェロ・クラツィーア)の母体となった[83]

1917年2月23日、ムッソリーニは塹壕内で起きた榴散弾の爆発事故で重傷を負った[59]。周りにいた兵士が死亡していることを考えれば奇跡的な生存であったが、ムッソリーニの全身には摘出できない40の砲弾の破片が残り、後遺症神経痛に悩まされることになった[82]。負傷中の病院には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレが訪問しており、これが後の主君と宰相の最初の出会いとなった。


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