だがカステラーノが「陸路」で帰国する前にバドリオはジャコモ・ザヌッシ陸軍副参謀長に「空路」でリスボンに交渉結果の確認を命じ、そのザヌッシは連合軍から無条件降伏が追記された「長期休戦協定」を渡されて帰国した[224]。カステラーノとバドリオに別々の交渉条件が伝えられるという連絡ミスによって、バドリオ政権の情勢判断はさらに混乱した[224]。9月2日、予定より大きく遅れてシチリア島の連合軍司令部に向かったカステラーノは「自身に決定権はない」として本国との連絡役以上の行動は取らず、バドリオは決断を避けて交渉は長引いた[224]。結局、休戦協定が纏まったのはイタリア本土上陸の予定日まで残り一週間を切った9月3日にずれ込み、その間にドイツ軍は諜報や戦力の移動といった介入に向けた準備を進めていた。
戦争指導についてもバドリオ政権の不手際は続き、本国や本土周辺の占領地における軍隊に適切な指示や再編を命じず、ドイツの進駐軍40万名に対して約190万名の守備戦力[注 21]は何の準備も命じられていなかった[225]。バドリオが口頭ではなく命令文書で軍に命令を出したのは『今後起こりうる事態とその対処』について『情報収集を怠らない事』という訓示を行った一例のみである[225]。バドリオの腹心で軍事計画を一任されていたアンブローシオ統合参謀本部総長は幾つかの命令を行っているが、やはりバドリオ同様の曖昧な内容で「ドイツ軍とのみ交戦を許可する」が、「ドイツ軍が攻撃しない場合は連合軍とも協力しない」とされていた[225]。
煮え切らないバドリオ軍部政権に苛立った連合軍はイタリア王国軍との共同戦線構築に備えてローマへの空挺降下と揚陸作戦を準備し、マクスウェル・D・テイラー少将を極秘でローマに送り込むことまでしているが、バドリオやアンブローシオはおろか、マリオ・ロアッタ陸軍参謀長とすら面会できなかった[226]。それでもどうにかテイラーは件のローマ周辺の新設部隊を指揮していたジャコモ・カルボーニ少将と連絡してバドリオとの面会を要請したが、就寝中だったバドリオは渋々といった態度で別荘での会見に応じ、計画についても消極的な発言を繰り返した[226]。最終的にバドリオは「ドイツ軍の戦力が強化されている」として作戦に反対した為、やむなくテイラーは作戦決行直前の空挺部隊と揚陸艦隊の撤収を連合軍遠征軍司令部に連絡したが、アイゼンハワーはバドリオ側の行動に怒りを露にしている[226]。サヴォイア家も最悪の事態を避ける努力を全く行わず、そればかりかローマ陥落に備えてスイスに王家の財産を乗せた40両の貨車を移動させている[226]。
1943年9月8日、共同戦線構築に見切りをつけた連合軍側はバドリオ政権に通告せず「イタリア政府の休戦」と「イタリア国軍の無条件降伏」を公表して、シチリア島からイタリア南部への侵攻を開始した。サヴォイア家とバドリオ政権はパニックに陥り、一時は休戦交渉を否定する宣言を行おうとしたが、同日午後7時に休戦交渉を認めるバドリオのラジオ演説が行われた。…イタリア政府は圧倒的に優勢な敵軍に対して対等な戦いをこれ以上続けることは不可能と認め、国民にとってさらに深刻な被害を避けるためにアイゼンハワー将軍へ休戦を申し入れた ? ピエトロ・バドリオ、1943年9月[226]
バドリオの裏切りが決定的となったことでヒトラーは作戦を発動して北伊への進駐を開始、陸軍省には各司令官らから状況の確認を求める電話連絡が殺到したが、バドリオ政権からの返答はなかった。未だ連合軍が南伊に留まっている状態であったことからバドリオら休戦派はタイプライターすら持ち出せず、何の責任も果たさずローマから逃亡したのである[163]。政権崩壊に加え、休戦演説時に「連合軍との戦闘を停止せよ」との命令と、「第三者の攻撃に反撃せよ」という相互に矛盾した発言をしたことで前線は一層に混乱した状態に陥った[163]。軍部隊の大部分は状況も把握できないままに武装解除されるか、孤立した状況下で抵抗して戦死するかのいずれかとなった[163](ケファロニア島の虐殺(英語版)[注 22])。
サヴォイア家の面々も王都ローマを捨ててブリンディジへ遷都したが、これはヒトラーがバドリオ政権のみならず国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世や王太子ウンベルト2世の拘束も命じていたためと考えられている[227]。見捨てられた形となる北部・中部イタリアではサヴォイア家の威厳が大きく損なわれたほか、一連の不名誉な裏切りをイタリアの国辱とする意識も広がり、後に継戦運動においては「9月8日」を意味する「オット・セッテンブレ(8 settembre)」というフレーズが用いられた。ファシスト政権下で抑えられていた共和派パルチザンの台頭も相まって、これらの反クーデターの動きは戦後の王政廃止の端緒となった。
1943年9月9日、複数の党派に分かれていたパルチザンやレジスタンスにとっての総司令部としてイタリア国民解放委員会(CLN)が設立され、バドリオ政権に代わって徐々に影響力を持っていった。CLNにより雑多で無軌道であった反政府運動は統制下に置かれたが、内部では王党派と共和派の対立が絶えず、バドリオ政権やサヴォイア家への責任追及も展開された。1944年6月、戦争責任を求める声を抑えるべくエマヌエーレ3世はウンベルト王太子を摂政に任命することをローマ解放直後に発表、その数日後の6月9日にはバドリオ政権も総辞職して王家・軍部中心の亡命政府は解体され、新たにボノーミが臨時政権を樹立した。
もしバドリオ政権が当初から毅然と連合軍側に立って参戦していればローマに連合軍が上陸し、王国軍と組織だった抵抗を行ってドイツ軍のアラリック作戦を頓挫させていた可能性があった。現実には優柔不断な行動を重ねた末、連合軍の進軍は間に合わず、約50万名のイタリア軍人が武装解除を余儀なくされ、サヴォイア家の威信も失われた。バドリオらのクーデターはサヴォイア家の維持と休戦というどちらの目標も達成できず、国家と国軍の名誉を傷付けるのみという無益な結末を迎えたのである。
ドイツによる救出詳細は「グラン・サッソ襲撃」を参照グラン・サッソから救出されたムッソリーニ
(1943年9月12日撮影)
一方、ローマ近郊の情勢が不穏当になったことからムッソリーニの身柄はティレニア海から移され、イタリア中部のラクイラ県とペスカーラ県に跨るグラン・サッソ山頂のホテルへ新たに幽閉された。ヒトラーは進駐と同時にムッソリーニの救出を軍に厳命していたが、ティレニア海の島々に滞在していた時に計画された作戦は一歩遅く身柄が移送されてしまったために失敗に終わっていた。ドイツ軍のクルト・シュトゥデント上級大将はグラン・サッソへの移送情報を新たに掴むと、1943年9月13日に救出作戦「柏(オーク)」を実施した。グラン・サッソに駐留していたのは主に警察やカラビニエリ(国家憲兵)の部隊だったが、休戦に従って連合軍に引き渡すべきなのか[219]、それとも王国政府を見限って釈放すべきなのか決め兼ねている状態にあった。そんな折にオーク作戦によって出撃したハラルト・モルス空軍少佐が率いるドイツ軍の特別部隊がグライダーでグラン・サッソに降下、ホテルへ突入した。