ベニート・ムッソリーニ
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またオーストリアの独立派が掲げていたハプスブルク家の復位にも賛同し、婚姻によるサヴォイア家とハプスブルク家の合同も検討していたとされる[注 15]

1934年7月25日、ナチ党の影響下にあるオーストリア・ナチスの党員がオーストリア軍兵士に偽装して首相官邸に突入、ドルフースを暗殺する事件を起こした。これはドルフース家がムッソリーニ家のリッチョーネにある別荘を尋ねる予定となっていた中の出来事であった。ムッソリーニは先にイタリアへ入国していたドルフース夫人に事件を伝えると、陸軍に4個師団を即座にオーストリア国境へ展開する命令を出した。同時にイタリアはイギリス・フランスと共にドイツへの非難声明をだし、一挙に併合を目論んでいたヒトラーは事件への関与を否定して計画を撤回せざるを得なくなった。ムッソリーニのヒトラーに対する印象は最悪なものとなり、彼が自身に尊敬の念を寄せるヒトラーを蔑んだという話は専らこの時期を指している。
枢軸国陣営の形成
第二次エチオピア戦争詳細は「第二次エチオピア戦争」、「イタリア帝国」、および「ファシズム・イタリアにおける帝国主義(英語版)」を参照

1934年12月5日、エチオピア帝国とイタリア領エリトリアソマリランドの国境問題を巡り、イタリアとエチオピアとの間で武力衝突が発生した(ワルワル事件)。青年時代から第一次エチオピア戦争の復讐を望んでいたムッソリーニはこれを契機にエチオピアへの植民地戦争を再開し、エリトリアおよびソマリランド駐屯軍に遠征準備を命じた。戦争にあたってムッソリーニは英仏と交渉を重ねて調整を進めていたが、左派の労働党や国民の平和主義運動に突き上げられた英仏は曖昧な態度を取り、最終的にリベラル寄りのスタンリー・ボールドウィン英首相と、反ファシストであった英外務副大臣アンソニー・イーデンの強い主張が通ってエチオピア側に立った[135]

イーデンの外交姿勢はストレーザ戦線を主導するなど旧協商国寄りであったムッソリーニをドイツへ接近させる結果を生み出し、この点において親ファシストであった外相サミュエル・ホーア、ウィンストン・チャーチルやイギリス王エドワード8世の考えとは対照的だった。特にイーデンの上位となる英外相ホーアはファシスト運動を初期段階から後援していたムッソリーニの旧友であり、「仮に経済制裁が行われても決して石油の禁輸は行わない」と約束していた。

1935年10月2日、ムッソリーニは外交交渉を切り上げることを決意し、ヴェネツィア宮からエチオピア帝国への宣戦布告演説を行った[136]。この数か月間というもの、運命の歯車は常に我々の澄み切った判断に動かされ、本来それが目指すべき所へと向かってきた。…エチオピア帝国に対して我々は40年間忍耐を重ねてきたが、それはもう沢山だ[136]。経済制裁に対してイタリアは規律と節約、犠牲を持って戦うだろう。軍事制裁に対しては兵力を持って、戦争には戦争をもって戦うだろう[136]

1935年10月11日、国際連盟はイタリアに対する経済制裁を求める決議を行い、反対票を投じたオーストリアハンガリーアルバニアパラグアイを除く加盟国の賛成で可決されたが、石油を制裁から外すという譲歩も示された。イーデンは石油禁輸を主張して国内でキャンペーンを展開するなど侵略反対を貫いたが、ファシズムに好意的だったフランスのピエール・ラヴァル政権は禁輸に反対した。そもそも国際連盟にはアメリカが加盟していないので、貿易路が封鎖されなければいくらでも物資輸入は可能だった。それでも経済制裁はイタリアの経済や市民生活については少なくない悪影響を与え、自給率を上げるアウタルキア(自給自足経済)の構築が進められた。

イタリアとの和解を目指す英外相ホーアと仏首相ラヴァルは、エチオピアに対してイタリアへの大幅な領土割譲を要求するホーア・ラヴァル協定を纏め、ボールドウィン英首相も一旦はこれを受け入れた。だが労働党と国民は猛烈な政府批判を繰り広げ、総選挙を控えていたボールドウィンは協定を破棄してホーアは辞任に追い込まれた。代わって外相に昇格したのがイーデンであり、外相となってからは石油禁輸どころかスエズ運河の封鎖まで主張するに至っている。イタリア国内ではボーア戦争戦争犯罪を取り上げた報道が行われるなど反英主義的が隆盛して、紅茶など「イギリス的な物」はアウタルキアの一環として禁止された。「イタリアで最も憎まれた男」であるイーデンに至ってはイタリア中から悪罵され[注 16]、イーデン(Eden)と同じ綴りとなる全ての地名が変更された。こうした排外主義はイタリア国民の愛国心や継戦意思を強める結果をもたらし、戦争を止める上では逆効果だった。「52カ国の包囲」と呼ばれた国際的な孤立はヴェルサイユ条約以来、国際外交に反感を持っていたイタリア国民からは「国益を守る戦い」と受け取られ、国家への忠誠心が最も高まった。


ローマ帝国の最大領域

イタリア帝国主義が主張していた領域

前線の戦いはエミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥、ピエトロ・バドリオ陸軍元帥、ロドルフォ・グラツィアーニ陸軍大将らが指揮を執り、開戦からすぐに因縁の土地アドワを占領している。冬の時期を迎えると一時的に進軍は停滞したが、1936年の春に行軍が再開されると同年中にエチオピア全土を制圧した。1936年5月2日、敗北したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエは特別列車でジブチへ逃亡を図り、これを空軍部隊で補足したグラツィアーニは列車を攻撃する予定だったが、ムッソリーニは提案を却下した。イタリア側の死傷者は本国兵士が2500名、植民地兵(アスカリ)が1600名と軽微であった[137]。戦闘ではピエトロ・バドリオ元帥の主張によって毒ガスも使用されたが軍事的な効果は限定的で、元よりハーグ陸戦条約違反(ダムダム弾の使用、兵士の遺体損壊)への報復として使用している[137]。併合されたエチオピア帝国の帝位は宣言通りエマヌエーレ3世が兼任し、後に旧エチオピア帝国領は周辺のイタリア領植民地と合同されてイタリア領東アフリカへ再編された。

1936年5月5日、ヨーロッパ系の植民者たちから歓声を受けつつ、白馬に乗ったバドリオ元帥が首都アディスアベバに入城して戦争は終結した。同日夜、ヴェネツィア宮の大広場に集まった国民に向けて、ムッソリーニは「エチオピア帝国への戦勝」と「サヴォイア家皇帝の称号を得る」という二つの輝かしい出来事を報告した[137]。熱狂する国民を前に『諸君らはそれに値するか?』とムッソリーニが問いかけると、『そうだ!』(Si、スィ)との大歓声が何度も上がった[137]。続いて自らの主君であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は今日を持ってから皇帝となり、ローマ帝国以来となる「イタリアにおける帝国の復活」も宣言した(イタリア帝国、Impero Italiano)。

戦争反対論を掲げていたイギリスのボールドウィンとイーデンは戦いが長期化するという読みが外れて面目を失い、保守党政権でイタリアを支持してきたネヴィル・チェンバレンウィンストン・チャーチルらが力を持ち始めた。チャーチルはイーデンのスエズ運河封鎖計画に反対し、ボールドウィンが後継首相に考えていたチェンバレンは制裁解除を求める演説を行っている[138]。また戦争終結直前に駐英大使ディーノ・グランディと謁見したエドワード8世も、「イタリアの戦勝に対する心からの喜び」を示したという[139]。周囲の意見に屈したイーデンは国際連盟で「もはやいかなる有用性もない」として制裁解除を求め、7月15日に国際連盟は経済制裁を解除した[138]

国家ファシスト党が初期段階から唱えていた拡張主義・生存圏理論である不可欠の領域(イタリア語版)を求める動きは、ローマ帝国時代を思い出させる「イタリア帝国」の成立によって勢いを増した。ただしイタリア帝国主義の目標は地中海圏の統合ではなく、エジプトから西アフリカ、バルカン半島西部、東地中海の島々と現状の飛び地を結ぶ構想であった。1938年3月30日には帝国全体の統帥権として帝国元帥首席(Primo maresciallo dell'Impero)が創設された。ムッソリーニは帝国元帥首席にヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と共同就任することで実質的に統帥権を分与されている。


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