ベニート・ムッソリーニ
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国庫大臣ヴィチェンツォ・タンゴッラ(イタリア語版)1922[注 10]イタリア人民党(PPI)

外務大臣ベニート・ムッソリーニ1922–1929首相兼務

法務大臣アルド・オヴィーリオ(イタリア語版)1922–1925国家ファシスト党(PNF)

商工大臣テオフィロ・ロッシ(イタリア語版)1922–1923[注 11]イタリア自由党(PLI)

教育大臣
(国民教育大臣)ジョヴァンニ・ジェンティーレ1922–1924無所属

公共大臣ガブリエロ・カレッツァ(イタリア語版)1922–1924イタリア社会民主党(PDSI)

労働大臣ステファーノ・カヴァゾーニ(イタリア語版)1922–1924イタリア人民党(PPI)

農林大臣ジュゼッペ・デ・カピターニ・ディアルツァーゴ(イタリア語版)1922–1923[注 11]イタリア自由党(PLI)

軍務大臣アルマンド・ディアズ1922–1924無所属(陸軍元帥)

海軍大臣パオロ・タオン・ディ・リベレ(英語版)1922–1925無所属(海軍元帥)

植民大臣
(イタリア・アフリカ大臣)ルイージ・フェデルツォーニ1922–1924イタリア・ナショナリスト協会(ANI)

通信大臣ジョヴァンニ・アントニオ・コロンナ・デ・カエサロ(イタリア語版)1922–1924[注 12]イタリア社会民主党(PDSI)

フィウーメ総督ジョヴァニ・ジュリアーティ(英語版)1922–1923[注 11]国家ファシスト党(PNF)
ヴェネツィア宮殿(Palazzo Venezia)で開かれた1936年の大評議会

ムッソリーニ内閣で注目すべき人事は文部大臣にファシズム運動に賛同していた哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレを抜擢したことが挙げられる。ジェンティーレは大規模な教育改革を進め、現在のイタリアにおける教育制度の基盤となる政策を実施した[108]

また国家ファシスト党の躍進には大戦後の経済難も背景として存在しており、その解決はファシスト政権にとっても重要課題であった。初期のファシスト経済はアルベルト・デ・ステファニ(イタリア語版)財務大臣に任された。経済的自由主義を志向するステファニ財務相は財政健全化を掲げて公的部門縮小と公務員削減に着手して政府省庁の統廃合も進めつつ、投資と自由貿易を振興した[107]。社会党時代の小作人や労働者の権利も縮小させる地主・企業家の側に立った経済改革を進め、過剰であったストライキが減少したことで生産力が増した。また財政健全化の一方で公共投資は大々的に行われ、高速道路を本土全域に建設するアウトストラーダ計画を実施している。こうした意欲的な経済政策によって大幅な経済成長率の向上を達成、民間企業の国有化を避けながら失業率を改善させた(但しインフレーションが同時にあった)。

後述する警察国家の推進によってマフィアをはじめとする犯罪組織は徹底的な取り締まりを受け、その殆どが壊滅状態に追い込まれたために経済犯罪も減少した。経済の立て直しという重要課題に成功したことで[108]、国民の大部分も連立政権を支持するかもしくは中立であった。

1922年12月、王家・党・政府の意見調整の場としてファシズム大評議会が設立された[108][107]。大評議会はファシスト党の政治方針を策定するほか、重要な外交議題やサヴォイア家の後継者(ピエモンテ公)の選出など、多様な問題について議論する権利を持ちえていて、ムッソリーニはファシスト体制における「政治の参謀本部」と表現している。続いて翌年2月1日には大評議会の審議を経て黒シャツ隊を国防義勇軍(Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale、MVSN)に改称の上、正式に予備軍事組織として政府軍の指揮下に収める決定を下した[108][107]。国防義勇軍内にはムッソリーニの護衛を目的とする統帥警護大隊(イタリア語版)が新たに編成され、身辺の警護にあたった。

ドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権獲得後に突撃隊を粛清したのとは対照的に、国家ファシスト党は民兵組織を排除しなかった。これはファシスト党が自身も含めた「兵士の政党」であるという背景に加えて、粛清や内部対立を嫌い大同団結を好むムッソリーニの政治信念による判断といえた。実際、ムッソリーニはヒトラーによる長いナイフの夜事件を聞いた際に妻との会話で「あの男は野蛮人だ。あの殺し方はなんだ」と旧友を冷酷に処断したことへの嫌悪感を口にしていた[109]。国民ブロック内で路線の違いが表面化しつつあったイタリア・ナショナリスト協会にも寛容な姿勢を見せ、1923年には国家ファシスト党に合流させる融和策を取った[108][110]
比例代表制改革詳細は「アチェルボ法(英語版)」を参照

1923年、国家ファシスト党選出のアテルノ・ペスカーラ男爵ジャコモ・アチェルボ(英語版)議員により既存の比例代表選挙を修正する選挙法改正案が提出された(アチェルボ法(英語版))。同法では今後の比例代表選挙では全体の25%以上の得票を集め、かつ第一党となった政党が全議席の3分の2を獲得し、残った議席を第2党以下に得票率に応じて分配するとする内容であった。小政党乱立による連立政治や野合を防ぎ、一党独裁制による政治権力の集中というファシズムの重要な目標を意図していた。法案は選挙が行われる下院(代議院)に関するもので、国王による任命制である上院(王国元老院)は対象外であった。

野党の共産党・社会党はアチェルボ法に反対しており、また国家ファシスト党が所属する連立与党でも意見が分かれたことから成立は当初疑問視されていた。しかし人民党や社会党など左派系政党の躍進に危機感を抱いていた自由党は賛同し、また当初は反対していた人民党もムッソリーニのコンコルダート路線を支持するローマ教皇の意を受けて連立離脱と棄権のみで肝腎の反対票は投じなかった[107]。人民党・自由党を懐柔し、並行してクーデターで活躍した黒シャツ隊を動員した恫喝も用いるという硬軟織り交ぜた手法で反対派を切り崩し、遂にムッソリーニはアチェルボ法を議会で可決させた。

国家ファシスト党の一党独裁を許したと否定的に評価されることの多いアチェルボ法であるが、比例代表制の短所と言える少数政党の乱立(破片化)による議会の空転を抑止する手段として比例第一党に追加議席を与える、少数政党から議席を没収するなどの方法で大政党に議会を主導させる選挙方式は第二次世界大戦後もしばしば用いられている。共和制移行後の初代大統領アルチーデ・デ・ガスペリは政権末期にイタリア共産党の躍進に危機感を抱き、得票率50%の政党が全議席の3分の2を得るとした新選挙法を制定してキリスト教民主党による一党優位政党制の確立を図っている。現代イタリアにおいても2005年12月21日から第一党に340議席を配分するプレミアム比例代表制が採用され[111]、2016年には40%以上の得票を得た第一党に過半数を与える選挙法改正が実施された。

またドイツやロシアと同じく得票率が一定以下の政党は議席を与えず、議会参加権を与えない阻止条項規定も設定されている。
コルフ島事件ケルキラ島(コルフ島)詳細は「コルフ島事件」を参照

1923年8月、第一次世界大戦の戦勝国による外交組織「大使会議」によるアルバニアユーゴスラビアギリシャなどバルカン諸国の国境線を確定するための調査が行われていたが、国境調査団のメンバーであったイタリア陸軍のエンリコ・テルリーニ(英語版)将軍が暗殺される事件が発生した。当初から領土問題に不満を持っていたギリシャ系組織による犯行が疑われ、イタリアや国際社会からの強い抗議を受けてもギリシャ政府は関係を否定し、調査や謝罪を拒否する姿勢を取った。これに対してムッソリーニは国際社会による調停を見限って強硬手段での解決を目指し、海軍によって8月31日ギリシャ王国ケルキラ島(コルフ島)を占領させた(コルフ島事件)。最終的にギリシャ政府は事件に関する責任や調査の不手際を認めてイタリアに謝罪し、5千万リラの賠償金を支払った。


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