ベニート・ムッソリーニ
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保守派と革新派という違いはあっても人民主義を掲げ[注 6]サヴォイア家によるリソルジメントを否定する二つの党[注 7]の躍進は、伝統的に政治を主導してきた自由主義右派・左派に著しい危機感を覚えさせた。このことはサヴォイア家や長老政治家たちがファシスト運動に力を貸そうとする動きを作り出した。第一党となった社会党は反教権主義からカトリック教会を後ろ盾とする人民党と連立が組めず、自由主義右派・左派とも妥協できずに最大政党ながら議会内で孤立して政権を獲得できなかった。また穏健派中心の議会勢力が拡大したことに急進派の反発も強まり、最大綱領派と呼ばれる最左翼勢力が離党してイタリア共産党を結成、パルミーロ・トリアッティアントニオ・グラムシニコラ・ボムバッチらが参加した。残された社会党の穏健派(改良主義者)でも資本家と労働者の協力を説いたジャコモ・マッテオッティら最右派勢力が第三インターナショナルの批判を受けて除名され、統一社会党を結党して独自活動を始めた。こうして社会主義の大同団結から始まった旧イタリア社会党はマルクス・レーニン主義社会民主主義改良主義ファシズムの潮流に分かれて衰退した[97]

1919年9月、国政の混乱に乗じてガブリエーレ・ダンヌンツィオがフィウーメ自治政府(現リエカ)での伊仏両軍の武力衝突を背景に自治政府を転覆させる事件を起こした(カルナーロ=イタリア執政府[94]。ダンヌンツィオが本国政府を動かすべく首都ローマへ執政府軍を進軍する動きを見せると、ムッソリーニは反乱を支持して戦闘者ファッシを戦力提供する密約を結び[98]、『イル・ポポロ・ディターリア(イタリア語版)』で呼び掛けて集めた義捐金300万リラを提供した[99]。しかしダンヌンツィオはムッソリーニとカリスマ的な民族主義の指導者という点では似通っていたが微妙に思想上の信念が異なり、盟友というより政敵という側面の方が強かった。政務面でも「政治は芸術である」を持論とするダンヌンツィオは長期的視野を全く持たず、その反乱は勢いを失えば無力であることをムッソリーニは知っており、ダンヌンツィオから催促の手紙が届くまでフィウーメでの会談には応じなかった[99]

1920年6月、長老政治家の筆頭であるジョヴァンニ・ジョリッティ元首相が再び政府首班となると、富裕層攻撃の政策や社会党への懐柔工作によって農民や工場労働者の占拠闘争を終焉させた[100]。続いて国際社会との関係改善に乗り出すべくユーゴスラビアとイタリアの間でフィウーメ自由都市化を定めたラパッロ条約を締結したが[94]、この際にムッソリーニ率いるイタリア戦闘者ファッシは条約締結を一転して支持し、ダンヌンツィオ派を裏切る形となった。これ以外にも執政府内で条約を巡って対立が相次ぎ、足並みが揃わない状況を好機と見たジョリッティは軍による強制排除に乗り出し、12月24日の総攻撃でカルナーロ=イタリア執政府は崩壊した[94]。ムッソリーニは最初からジョリッティ政権と内通しており[98]、ジョリッティとの協力を通じてダンヌンツィオ派を国粋運動から排除しつつ、政府内への人脈を得るというマキャベリズム的な権謀術数であった。以降、ダンヌンツィオ派の国粋運動はファシズム運動の一翼という形で吸収されて消滅し、権威を失ったダンヌンツィオは二度と政界の主導権を握れなかった。

都市部の組織が政権との結びつきを深める一方、農村部では先述の自作農による民兵組織をイタリア戦闘者ファッシの行動隊(イタリア語版)として取り込み、組織立った形で社会党や小作人の農地改革を求める動きに対抗させていった。大規模農業が中心であり、故に小作人の支持を得る社会党が地盤としていたエミリア・ロマーニャ州などポー川流域では特に激しい衝突が繰り返された[94]。行動隊による「懲罰遠征」と称したテロが繰り返され、徐々に社会党組織の党勢は退潮していった。1920年11月、州都ロマーニャで社会党から選出された市長の就任式に銃で武装した行動隊が突入し、多数の死者が発生している[94]。仲裁する立場にある警察は社会党の反警察活動が仇となり[注 8]行動隊を支持してむしろ協力する姿勢を見せていた[94]ポー川流域での勢力拡大を受けて、他の地域でもファシズム運動を支持する動きが広がり、ムッソリーニの政治的権威は益々高まっていった。
国家ファシスト党詳細は「1921年イタリア総選挙(英語版)」を参照1921年総選挙後の議席数

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  社会民主党   人民党   自由党
  国民ブロック

1921年5月15日の1921年イタリア総選挙(英語版)では与党の統一会派としてイタリア自由党、イタリア社会民主党(英語版)、イタリア・ナショナリスト協会による国民ブロックが結党され、ジョリッティ政権の仲介でムッソリーニのイタリア戦闘者ファッシも国民ブロックに参加した[94]。国民ブロックは全体票の19.1%となる約126万票を獲得する勝利を得て、第1党のイタリア社会党と第2党のイタリア人民党に続いて第3党となり、自身もミラノ選挙区で当選した。議会では代議院の535議席中105議席を与えられ、そのうちの35議席が自身を含めたファシスト運動に賛意を示す議員であり、20議席がファシズムに理解を示すナショナリスト協会出身であった。ファシズム派が多数を占めた国民ブロックはやがてムッソリーニの支持基盤として機能していくことになる。また各加盟政党は国民ブロックとは別に単独擁立した候補も出馬させており、双方を合わせて与党連合は半数を超える275議席を確保した[101]。ジョリッティは選挙勝利から2か月後の7月に首相職を勇退した為、国庫大臣を務めていたイヴァノエ・ボノーミが政権を引き継いだ[101]

国政に進出したムッソリーニは退役兵・民兵団体の緩やかな連合体であったイタリア戦闘者ファッシを正式に政党化すべく組織再編を進め、またリグリア州で大規模な官憲による行動隊への取り締まりが行われたことから合法路線に転じ、主敵であった社会党とも和解交渉を進めていった[94]。同時に共和主義をファシズムの政治理論から排除し、王政維持を認めるなど穏健化も進めていった[94]。しかし集権化と対話路線はイタロ・バルボなど各民兵団体を代表するファシスト運動の「地方指導者」(ラス、Ras)からの猛反発を受けた。彼らはまだムッソリーニを絶対的指導者とは認めず、また穏健路線や修正主義にも不満であった。一時はファシスト運動が空中分解する可能性もあったが、ムッソリーニが指導者の地位を自ら退く行動に出ると誰も運動を取りまとめることができず、結局は地方指導者たちがムッソリーニの復帰を嘆願する結末となった。

最高指導者としての担当能力を示す駆け引きによって地方の指導者層を抑え、1921年11月9日ローマアウグストゥス廟前で開かれた全国大会で「イタリア戦闘者ファッシ」を「国家ファシスト党」(PNF)へ発展的に解散することを宣言した。


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