ベニート・ムッソリーニ
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最終的にギリシャ政府は事件に関する責任や調査の不手際を認めてイタリアに謝罪し、5千万リラの賠償金を支払った。対外的な強行姿勢は国民の愛国心を高め、ムッソリーニ連立政権への支持はますます上昇した。

1924年、ユーゴスラビア王国と友好条約を結び、隣国との外交関係を強化した。また、同時期、イタリアはソヴィエト連邦を国家承認した最初の西側諸国となった[112]

1925年10月、英仏独伊共同の平和条約であるロカルノ条約を締結した。
総選挙における勝利1924年総選挙後の議席数

  共産党   統一社会党   社会民主党
  人民党   自由党左派   自由党
  国民名簿
ジャコモ・マッテオッティ

1924年4月6日、1924年イタリア総選挙(英語版)で国民ブロックと合併した国家ファシスト党を中心とした選挙連合「国民名簿」(Lista Nazionale、LN)が設立され、中道右派の人民党と自由党、中道左派の自由民主党が参加を声明した。LNに参加した3党に共通していたのは反共主義で、左派を主導する社会党を主敵とみなしていた。その社会党はボノーミやムッソリーニに続いてマッテオッティやトリアッティらも離脱したことで党勢衰退が目に見えており、彼らが設立した統一社会党と共産党と票を取り合う状態に陥っていた。ほかに新たに結党された行動党や農民党、伝統的な小政党である共和党などが野党側に回った。

この選挙における投票率は63.8%(前回選挙は58.4%)、その中で白票を投じた投票者は全体の6%(前回選挙は1%)となった。そうした中でムッソリーニ内閣を支持するLNは有効票の64.9%に相当する約460万票を獲得する圧倒的な人気を見せ、結果的には上記のアチェルボ法の適用を待たずして現政権の続投が確定した。ムッソリーニ政権の経済政策の成功や国威発揚などが国民から高く評価されていることが示され、国王エマヌエーレ3世も「国家の存在を締め付け、衰弱させるくびきを打ち壊した」と賞賛している。「国民名簿」は最終的に374議席を配分され、その中枢たる国家ファシスト党内部では急速な組織規模の拡大から軋轢が生まれるほどだった。ムッソリーニは大規模な党員追放と指導部改組を行って党の引き締めを図り[113]、党書記長職も一時的に単独から4名による合議制に変更された。

対する野党第一党である社会党の得票は惨憺たるものであり、前回得票した約160万票から急落して僅か36万票しか獲得できないという破滅的な惨敗となった。ボノーミ派の社会民主党(約10万票)、トリアッティ派の共産党(約26万票)こそ辛うじて上回ったが、マッテオッティ派による統一社会党(約42万票)にすら追い抜かれるありさまであった。

他の新党や協力政党も同じく存在感を示せなかったが、ムッソリーニは圧勝の後も議会政治・多党制を維持することを約束して選挙連合に参加した人民党、自由党、自由民主党と連立政権を組閣している。今や政権内の閣僚の殆どが国家ファシスト党出身で占められていたが、複数の人物が「ムッソリーニは社会党を含めた諸政党との挙国政権樹立を放棄していなかった」と証言している[114]
政治闘争と独裁の開始詳細は「ファシストと反ファシストの政争(1919年-1926年)(英語版)」および「首席宰相及び国務大臣(イタリア語版)」を参照

イタリアの民主制は急速に後退していたが、ムッソリーニ政権批判の急先鋒となっていたのが野党第一党の統一社会党を率いるジャコモ・マッテオッティ書記長であった。1924年6月10日、そのマッテオッティが何者かによって暗殺されたのを契機にムッソリーニ内閣に対する大規模な反政府運動が発生した。マッテオッティは社会党がムッソリーニが掲げる挙国政権参加を検討していることに反対し、事件直前の5月30日に行われた議会演説で激烈に国家ファシスト党を批判していた[108]。マッテオッティ暗殺がムッソリーニの命令によるものかは議論が残るが[注 13]、どうあれファシスト党の反民主主義という評価は決定的となった[108]

それまでムッソリーニ政権に是々非々の態度を取っていた諸政党は一挙に態度を硬化させ、古代ローマ時代に平民貴族に対抗して聖なる山(一説にローマの七丘の一つアヴェンティーノにあったとされていた[115])に立てこもった[注 14]故事に倣い、議会を欠席するアヴェンティーノ連合という政治運動が始まった[108]。混乱の中、党の地方組織からも「非妥協派」と呼ばれる黒シャツ隊(旧行動隊)を中心とした党内過激派がファシズム運動の集権化と穏健路線に対する不満を再燃させ、以前から非妥協派の粛清を求めていた修正主義派のファシストと党内抗争を引き起こし[107]、指導部に反対する離党者も次々に発生した。党内外からの圧力は大戦前のムッソリーニにとって最大の政治的危機となった[108]

「この演説から四十八時間以内に事情が明らかになる事を覚悟せよ。諸君、自分の心にあるのは個人の私利私欲でもなく、政権への欲求でもなく、下劣な俗情でもない。ただ限りなく、勢い強い、祖国への愛だけだ!」
ベニート・ムッソリーニ
1925年1月3日の独裁宣言演説[116]

しかし結果から言えば精神的指導者であるムッソリーニの権威が党内で決定的に揺らぐことはなく、党の崩壊や分裂には至らなかった[117]。反ファシスト運動も国王や軍の支持が得られなかったことから次第に勢いを失い[107]、最終的にゼネストに踏み切るかどうかで共産党や社会党、人民党の対応が分かれて瓦解した。内紛を制したムッソリーニは党内においては仲裁役、政府内においては既存の多党制を維持しながらの制度改革を考えていたそれまでの計画を不十分と感じ、根本的に国家制度を改革して一党制による独裁政治を行うことを決意した[107]。ムッソリーニは党の書記長職に就かなかったり、首相時代に連立政権という形を取るなど自身が独裁者になることは望んでいなかったが、先述の内紛は全体主義を確立するまでの過渡期には独裁者が必要であることを示した。

1924年12月31日、各地で反ファシスト派への実力行使を再開していた国防義勇軍の幹部三十三名が年始の挨拶に首相官邸を訪れた際にファシスト党によるクーデターを提案すると、ムッソリーニも今回は了承した。1925年1月3日、ムッソリーニは議会演説で独裁の推進を公言し、同年の12月24日に首相に代わる新たな役職として首席宰相及び国務大臣(イタリア語版)(イタリア語: Capo del governo primo ministro segretario di Stato)を創設・就任した。論者によって違いはあるが、概ねこの時からムッソリーニの独裁は開始したとみなされている。
ファシズム体制の構築ムッソリーニを出迎える党員たち
(1930年撮影)ファシズム・コーポラティズム議院に臨席するヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
(1939年撮影)

独裁宣言以後、ムッソリーニは結社規制法、定期刊行規制法、政府による公務員免職法など次々と可決させ、反対派が全体主義(総力戦主義)と呼ぶ統制的な社会体制を作り上げていった[107]。後に続くナチス・ドイツ体制での強制的同一化とは異なり、無用な軋轢を避け、長期的な視野に基づいた体制構築を志向したファシズム・イタリア体制は「選択的全体主義」と定義されている。

1925年6月に開かれた国家ファシスト党の党大会において、ムッソリーニは「イタリア国民のファシスト化」を宣言した[108]。全ての国民が年齢・性別・職業・居住地など何らかの区分毎に組織化され、自由主義国家で認められているような政治社会と市民社会の境界線は取り払われた[118]。政治行政から文化政策に至るまで、あらゆる分野でファシズムに基づいた社会・国家の構築が図られた[118]。1927年10月、「ファシスト暦」の導入が決定され、ローマ進軍が行われた「西暦1923年」を「ファシスト暦第1年」として暦の始まりとした[119]。伝統的な年号の横にローマ進軍から経過した年数が刻まれ、ファシズムの象徴であるファスケス(束桿)が宰相旗や国章などに組み込まれた。


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