ベニート・ムッソリーニ
[Wikipedia|▼Menu]
そんな折にオーク作戦によって出撃したハラルト・モルス空軍少佐が率いるドイツ軍の特別部隊がグライダーでグラン・サッソに降下、ホテルへ突入した。あらかじめ王国政府を離反してドイツ軍側に協力していた警察司令官フェルナンド・ソレツィ(イタリア語版)が投降を呼びかけていたこともあり、警護部隊は抵抗せず武装解除された。

救出されたムッソリーニの護衛役を務めたのは軟禁先の調査に功績のあったオットー・スコルツェニー武装親衛隊大尉であった。面会したスコルツェニーが「ドゥーチェ!我がフューラーの命により救出に参りました!」と敬礼すると、ムッソリーニは「友人が私を見捨てないことは知っていたよ」と抱擁を交わしている[228]。スコルツェニーはムッソリーニの印象について以前より痩せていたが、独裁者としての威厳が保たれていたと回想している[229]。救出されたムッソリーニは本来なら小型ヘリコプターであるFa223に乗って先に脱出する手はずだったが、Fa223の故障から小型飛行機のFi156に急遽乗り換えて脱出することになった。ドイツ領へと逃れたムッソリーニは東プロイセン州ラステンブルク総統大本営ヴォルフスシャンツェ)へ護送された。

救出作戦成功後、ヒトラーはドイツに亡命していたムッソリーニの次男ヴィットーリオ・ムッソリーニを大本営に招き、片言のイタリア語で父親の無事を伝えたという[229]
内戦
イタリア社会共和国詳細は「イタリア社会共和国」、「共和ファシスト党」、「ヴェローナ憲章(英語版)」、「第29SS武装擲弾兵師団」、および「イタリア共同交戦軍(英語版)」を参照

1943年9月15日、程なくムッソリーニ本人がラステンブルク総統大本営に到着すると両者の間で秘密会談が行われた。進駐領域に建設される予定の親独政権の指導者は当初ファシスト党のロベルト・ファリナッチ元書記長が予定されていたが、ムッソリーニ批判からヒトラーの勘気を被って白紙となっていた。秘密会談でヒトラーは盟友であるムッソリーニの進駐領域の統治を依頼し、胃癌で衰弱していたムッソリーニは一旦辞退したが、最終的にはヒトラーの説得に折れる形で了承した。ヒトラーのムッソリーニに対する個人的な尊敬や友情に変わりはなかったが、政治的にはやや強気の姿勢も見せるようになっていた。ヒトラーは自身が信頼できる人物を指導者にできない場合、親衛隊が主張するポーランドと同じ総督府による占領統治をイタリア北部・中部で実行せざるを得ないと述べている[230]

親衛隊は最終決戦に向けてあらゆる利用可能な資源や領土を掻き集めようとしており、イタリアの占領地域も例外ではなかった。ナチス政府がスラブ圏で見せた冷酷な統治を知るムッソリーニは、祖国を守るために「ヒトラーからの好意」を受け入れるよりほかになかった。ムッソリーニが指導者就任を請け負うとヒトラーは大いに喜んだが、同時に体調面を気遣って自身の主治医であるテオドール・モレルの治療を受けさせた。後世の医学者からは評判の悪いモレルではあるが今回の治療に関しては成果を上げ、ムッソリーニはミュンヘンで体調を回復させてからイタリアのミラノへと戻った。

「 我々の意思、我々の勇気、我々の信念はイタリアに新体制や、将来性や、生命力や、世界におけるしかるべき立場を与えるだろう。これは希望ではなく、皆への最高の信義でなければならない。イタリア万歳!共和ファシスト党万歳!」
ベニート・ムッソリーニ(1943年9月[231]

1943年9月18日、ムッソリーニはイタリア国営放送を通じて最初の声明を発表、貴族王政を廃した共和制下でのファシズム体制完成を掲げて共和ファシスト党(Partito Fascista Repubblicano、PFR)をロンバルディア州ミラノで結党し、初代書記長にアレッサンドロ・パヴォリーニ(英語版)を指名した。9月23日、イタリア北部・中部への進駐の完了によってローマを法律上の首都とし、共和ファシスト党による一党独裁が行われるイタリア社会共和国(Repubblica Sociale Italiana、RSI)を建国した[205][注 23]。ムッソリーニはRSIの元首に選出され、「社会共和国のドゥーチェ」(イタリア語: Duce della Repubblica Sociale Italiana)の元首称号を使用した[232]。ドイツと日本が直ちにイタリア社会共和国を承認してヴェネツィアに大使館を置いた。

連合国はこの動きに対抗すべく休戦条約を結んだイタリア王国の南部亡命政府を共同交戦国(英語版)として認め、ジョヴァンニ・メッセ陸軍元帥を総司令官とするイタリア共同交戦軍(英語版)が創設された。連合国はイタリア社会共和国を安全面からローマから行政府が移動されていたサローに準えて「サロ政権」(小共和国)と蔑称し、国家承認を拒否した。このガルダ湖に面した街はかつてムッソリーニとの世代交代によって表舞台から去った愛国者ガブリエーレ・ダンヌンツィオが余生を過ごした土地であり、そこから少し離れたガルニャーノ市のヴィッラ・フェルトリネッリに執務室を置いた。「『自由主義』来たる!」
RSI政府の宣伝ポスター。アメリカの戦略爆撃で焼払われる町々とそれを見下ろす自由の女神が描かれており、女神は仮面を外して死神としての正体を見せている

RSI政府は先述した通り旧イタリア王国領の北部・中部に建国されたが、厳密にはドイツ軍の軍政領域とされたアルペンフォアラント作戦領域(英語版)(南チロル及びトレンティーノ)、アドリア沿岸部作戦領域(英語版)(フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア)は領土に含まれていない。また海外植民地やバルカン半島分割で得た新規領土もドイツ領として管理された。ムッソリーニは最終的な目標として「かつてイタリア国旗の翻った全ての領土[233]」を回復することを決意しており、ヒトラーも戦勝の後は旧イタリア王国領をRSI政府に帰属させることに同意している。しかしまずは目前に迫る連合軍と南部亡命政府との内戦に備えなければならなかった。また共産主義や社会主義、自由主義などをイデオロギーとするレジスタンスパルチザンがRSI領一帯で蜂起してドイツ軍やRSI政府に抵抗すべく解放区(自由共和国)建設の動きを見せており、治安回復も急務であった。

新国家においてムッソリーニは王党派との妥協で不完全に終わっていた修正マルクス主義を基点とするファシズム体制の完成を進めた。大企業の完全国有化など経済の社会化(イタリア語版)を推進する傍ら、将来の憲法制定を準備すべくヴェローナで開催した共和ファシスト党全国大会で十八条からなる憲法草案としてヴェローナ憲章(英語版)を採択した。ヴェローナ党大会にはファシスト以外にも様々な政治思想家たちが呼ばれ、広範な議論が行われた。共和制大統領制の導入、コーポラティズム国家の完成を目指した労働者の権利拡大(労働憲章の制定、労働者の企業経営参加制度の導入)、大統領制とバランスを取る政治制度(下院選挙の再開、多党制議会の復活、党役職を指名制から党員選挙制に戻す)など様々な改革案が採用された[234]。未来的な国家を目指したヴェローナ憲章は資本主義社会主義の超越を目指す第三の位置としてのファシズム思想を完成させた内容となった。

組閣は王党派や親米英派ファシストが離れた為、限られた人材から選ばなければならない困難な作業だったが、あくまでもムッソリーニを支持する者たちはもちろん、ヴェローナ憲章の描く未来に賛同してファシスト以外から協力を申し出た者たちも少なくなかった[234]。ムッソリーニの旧友でイタリア共産党の創設者の一人でもあるニコラ・ボムバッチはトリアッティらと袂と分けてRSI政府に協力し、経済政策顧問として経済の社会化(英語版)を主導している。老齢の哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレもイタリア学士院院長として再びムッソリーニに力を貸し、ロシア派遣軍から戻った未来派の詩人マリネッティもRSI政府に参加している。反共主義と並んでファシズムが重要視する反資本主義や反自由主義も、アメリカとの対峙を通じて高まりを見せ、同様の理由からアフリカ系の黒色人種に対する反感も再燃した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:708 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef