終戦後にネオファシストや保守派による正式な埋葬を求める動きが起き、カトリック教会によって故郷のプレダッピオに改葬された。現代イタリアにおいても影響力を持ち、共和ファシスト党(PFR)を事実上の前身とするネオファシスト政党「イタリア社会運動」(MSI)、MSIが合流した国民同盟(AN)、自由の人民(PdL)、イタリアの同胞(FdI)などが国政で議席を獲得している。
生涯
少年時代
出自プレダッピオ市に位置するムッソリーニの生家
1883年7月29日、ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini)はサヴォイア朝イタリア王国エミリア=ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県の県都フォルリ近郊にあるプレダッピオ市ドヴィア地区に、鍛冶師アレッサンドロ・ムッソリーニ(英語版)と教師ローザ・ムッソリーニ(英語版)の長男として生まれた[5][6]。メキシコ合衆国の初代大統領で独立の英雄のベニート・フアレスにちなんでベニート、親しい間柄にして尊敬する国際主義的な革命家であったアミルカレ・チプリアニにちなんでアミルカレ、イタリア社会党の創設者の一人であるアンドレア・コスタ(イタリア語版)にちなみアンドレーアとそれぞれ父の尊敬する人物の名前をもらっている[7]。三人兄妹の長兄として二人の弟妹がおり、次弟はアルナルド(英語版)、長妹はエドヴィージェ(イタリア語版)という名であった[8]。
ムッソリーニという家名はブレダッピオでよく見られるもので、現在でも同地にはムッソリーニ姓を持つ人々が複数居住している[9]。家系については少なくとも17世紀頃にはロマーニャに農地を持つ自作農として教区資料に記録されている[10]。父方の祖父ルイジ・ムッソリーニも小さな土地を開墾する農民であったが、若い時は教皇領の衛兵でもあった[11]。ほかにムッソリーニ家はボローニャで織物(モスリン)を扱う商家であったとする記録も残っている[12]。それ以前の祖先の出自については著名人の常として多様な説が提唱されているが、一番信憑性があるのは13世紀頃からボローニャからロマーニャへ落ち延びた貴族の末裔という説である[13]。独裁者として君臨した際には権威づけのために多くの学者や側近がこの説を裏付ける努力をしたが、当のムッソリーニはそうした権威の類には興味を持たなかったようである[14]。ムッソリーニは自身が農民や商人の子孫であり、鍛冶屋の子であることを誇りにしていた[15][12]。
父アレッサンドロは熱心な社会主義者で第二インターナショナルのメンバーであり[5]、社会主義と無政府主義と共和主義が入り混じった独特な思想を持っていた[16]。祖父ルイジが農地を失ったために鍛冶屋へ奉公に出され、やがて一人前の鍛冶師となって生計を立てた。貧しい生まれながら独学で読み書きなど教養を身に着け、1889年にプレダッピオ市議会の議員に選出されて以来、一度の落選を挟んで1907年まで市会議員や助役を務めている。幼い時から父の助手として鍛冶仕事を手伝う生活を送ったこともあって[17]、ムッソリーニは父から強い影響を受けて社会主義と、第一インターナショナルにも参加していたジュゼッペ・ガリバルディやジュゼッペ・マッツィーニら愛国主義的な共和主義に傾倒し[18]、後年にもムッソリーニは王政打倒とイタリア統一の両立を目指したガリバルディたちを賞賛する発言を残している[16]。父から受け継いだ「政治の目標は社会正義の実現である」という政治的信念は生涯変わらなかった[19]。
母ローザはプレダッピオに小学校が建設された時に同地へ赴任した教師で、教育環境の向上を訴えて小学校建設にも協力していたアレッサンドロと知り合い、やがて結婚した。アレッサンドロは無神論者であったのに対して、ローザは敬虔なカトリック派のキリスト教徒であったので、教会と対立していた当時のイタリア王国の習慣に基づいて民事婚と教会の結婚式を二度行っている[20]。母ローザから強制されたカトリックへの帰依はムッソリーニにとって苦痛であり、母と同じく教会に通っていた弟アルナルドに対して、むしろ父と同じ無神論を選択していた[21]。 少年期のムッソリーニは喧嘩っ早い性格で、腕っ節の強さで村の少年たちのリーダーになっていた[21]。しかし性格自体は寡黙で、後年もそうであったように周囲に心を開かず、仲間と群れることを嫌って一人で行動することも多かった[22]。勉学の面では教養深い両親の間に生まれ、田舎町の生まれでありながら正確な標準イタリア語を話すことができた[22]。長男が教会を嫌うことは敬虔な母ローザの悩みの種であったが、プレダッピオに建設された義務教育部分のみを担当する二年制学校で勉学を終わらせるのは惜しかったこともあり、ファエンツァにあるサレジオ修道会系のイスティトゥート・サレジアーノ寄宿学校[23]で勉学を継続した[22]。寄宿学校ではラテン語や神学などを学んだが、この時期はムッソリーニにとって最悪の時期であった。 イスティトゥート・サレジアーノ寄宿学校では学費の大小によって生徒の待遇が異なり、庶民(下層民)・平民・貴族によってクラスが分けられ、寝食など全てで差別されていた[23]。ムッソリーニは「社会の不公平さ」を実感し、また偽りの平等を説く教会を憎んだという。教師の側もムッソリーニを警戒し、風紀委員を通じて監視下に置いていた。こうした状況から学業成績こそ「鋭敏な知性や記憶力に恵まれている」「どの科目も一読するだけで暗記している」「試験成績では他の生徒を圧倒している」と高く評価されていながら、学校から脱走し、教師にインク瓶を投げつけ、上級生をナイフで刺し、堅信礼やミサを妨害する問題児になっていった[23][24]。
教会との対立