ベニート・ムッソリーニ
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サヴォイア家の指導下にあった軍の掌握にも努め、大元帥(帝国元帥首席)に国王・皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と共同就任して統帥権を獲得した。十数年にわたる長期政権を維持していたが、明暗を分けたのは第二次世界大戦に対する情勢判断であった。当初、第一次世界大戦のような塹壕戦による泥沼化を予想していたことに加え、世界恐慌による軍備の脆弱化から局外中立を維持していた。だが一か月間という短期間でフランスが降伏に追い込まれる様子から、準備不足の中で世界大戦への参加を決断した[4]

1943年7月25日連合国軍の本土上陸に伴う危機感からファシスト党内でクーデターが発生して失脚し、一時幽閉の身となったが、後にナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーの命令によって救出された。胃癌により健康状態が悪化していたために一旦は政界から引退したが、ロベルト・ファリナッチと対立したヒトラーの要請によって表舞台に復帰した。以後、ドイツの衛星国として建国されたイタリア社会共和国(RSI)および共和ファシスト党(PFR)の指導者を務めるが、枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚する。1945年4月25日連合国軍に援助されたパルチザンに拘束され、法的裏付けを持たない略式裁判によりメッツェグラ市で銃殺された。生存説を退けるために遺体はミラノ市のロレート広場に吊されたのち、無記名の墓に埋葬された。

終戦後にネオファシストや保守派による正式な埋葬を求める動きが起き、カトリック教会によって故郷のプレダッピオに改葬された。現代イタリアにおいても影響力を持ち、共和ファシスト党(PFR)を事実上の前身とするネオファシスト政党「イタリア社会運動」(MSI)、MSIが合流した国民同盟(AN)、自由の人民(PdL)、イタリアの同胞(FdI)などが国政で議席を獲得している。
生涯
少年時代
出自プレダッピオ市に位置するムッソリーニの生家

1883年7月29日、ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini)はサヴォイア朝イタリア王国エミリア=ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県の県都フォルリ近郊にあるプレダッピオ市ドヴィア地区に、鍛冶師アレッサンドロ・ムッソリーニ(英語版)と教師ローザ・ムッソリーニ(英語版)の長男として生まれた[5][6]メキシコ合衆国の初代大統領独立英雄ベニート・フアレスにちなんでベニート、親しい間柄にして尊敬する国際主義的な革命家であったアミルカレ・チプリアニにちなんでアミルカレ、イタリア社会党の創設者の一人であるアンドレア・コスタ(イタリア語版)にちなみアンドレーアとそれぞれ父の尊敬する人物の名前をもらっている[7]。三人兄妹の長兄として二人の弟妹がおり、次弟はアルナルド(英語版)、長妹はエドヴィージェ(イタリア語版)という名であった[8]

ムッソリーニという家名はブレダッピオでよく見られるもので、現在でも同地にはムッソリーニ姓を持つ人々が複数居住している[9]。家系については少なくとも17世紀頃にはロマーニャに農地を持つ自作農として教区資料に記録されている[10]。父方の祖父ルイジ・ムッソリーニも小さな土地を開墾する農民であったが、若い時は教皇領衛兵でもあった[11]。ほかにムッソリーニ家はボローニャで織物(モスリン)を扱う商家であったとする記録も残っている[12]。それ以前の祖先の出自については著名人の常として多様な説が提唱されているが、一番信憑性があるのは13世紀頃からボローニャからロマーニャへ落ち延びた貴族の末裔という説である[13]独裁者として君臨した際には権威づけのために多くの学者や側近がこの説を裏付ける努力をしたが、当のムッソリーニはそうした権威の類には興味を持たなかったようである[14]。ムッソリーニは自身が農民や商人の子孫であり、鍛冶屋の子であることを誇りにしていた[15][12]

父アレッサンドロは熱心な社会主義者で第二インターナショナルのメンバーであり[5]社会主義無政府主義共和主義が入り混じった独特な思想を持っていた[16]。祖父ルイジが農地を失ったために鍛冶屋へ奉公に出され、やがて一人前の鍛冶師となって生計を立てた。貧しい生まれながら独学で読み書きなど教養を身に着け、1889年にプレダッピオ市議会の議員に選出されて以来、一度の落選を挟んで1907年まで市会議員や助役を務めている。幼い時から父の助手として鍛冶仕事を手伝う生活を送ったこともあって[17]、ムッソリーニは父から強い影響を受けて社会主義と、第一インターナショナルにも参加していたジュゼッペ・ガリバルディジュゼッペ・マッツィーニ愛国主義的な共和主義に傾倒し[18]、後年にもムッソリーニは王政打倒とイタリア統一の両立を目指したガリバルディたちを賞賛する発言を残している[16]。父から受け継いだ「政治の目標は社会正義の実現である」という政治的信念は生涯変わらなかった[19]

母ローザはプレダッピオに小学校が建設された時に同地へ赴任した教師で、教育環境の向上を訴えて小学校建設にも協力していたアレッサンドロと知り合い、やがて結婚した。アレッサンドロは無神論者であったのに対して、ローザは敬虔なカトリック派のキリスト教徒であったので、教会と対立していた当時のイタリア王国の習慣に基づいて民事婚と教会の結婚式を二度行っている[20]。母ローザから強制されたカトリックへの帰依はムッソリーニにとって苦痛であり、母と同じく教会に通っていた弟アルナルドに対して、むしろ父と同じ無神論を選択していた[21]
教会との対立

少年期のムッソリーニは喧嘩っ早い性格で、腕っ節の強さで村の少年たちのリーダーになっていた[21]。しかし性格自体は寡黙で、後年もそうであったように周囲に心を開かず、仲間と群れることを嫌って一人で行動することも多かった[22]


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