ベナン
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日本語の公式国名はベナン共和国である[3]。通称ベナン。かつては英語発音またはローマ字読みからベニンとも表記されたが、現在では現地の発音に近いベナンという表記が浸透した。

フランス植民地時代の名称はダホメ、1960年のフランスからの独立後の名称はダホメ共和国であり、いずれもダホメ王国にちなんだ名称である。1975年11月30日、かつてナイジェリアに存在したベニン王国にちなんで国名をベナン人民共和国に変更した[8]。その後、1990年社会主義政策放棄と共に現在の国名となった。
歴史詳細は「ベナンの歴史(フランス語版、英語版)」、「ダホメ王国」、「オヨ王国」、および「ウィダー王国(英語版)」を参照
植民地化以前1729年の西アフリカの地図。トーゴとともに「奴隷海岸」と呼ばれた。ダホメ王国の国旗(1889年)ダホメ共和国の国章(1958年-1964年)?ベナン人民共和国の国旗(1975年-1990年)ベナン人民共和国の国章(1975年-1990年)

フランスの植民地支配以前、現在のベナンがある地域一帯には、海岸沿いにアジャ族を中心とした都市国家、内陸部に部族地域、そして現在のベナンの東にオヨ帝国が存在し、それぞれ政治体制も民族も異なるものであった。

1600年代から1700年代初頭にかけて、フォン人の居住地区であった現在のアボメイ付近にダホメ王国が建国され、1727年までにアガジャ王は沿岸部のアラダウィダーの都市を征服した。しかしオヨ帝国には進貢する立場に甘んじ、オヨの同盟都市国家ポルトノボを攻撃することもなかった[9]。ダホメ王国の台頭とポルトノボの対立、北部地域の部族政治は、植民地時代とポスト植民地時代にも尾を引くこととなる[10]

ダホメ王国はウィダーにあるポルトガルサン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダなどのヨーロッパ人商人を主な相手として奴隷貿易を行い[11]、これを主な収入源にして銃火器を輸入した。その後も18世紀を通して周辺の国を軍事的に攻撃して繁栄した。ダホメ出身のフォン人の奴隷は、アメリカ大陸のフランス領サン=ドマング黒人奴隷共同体の中で文化的なヘゲモニーを握り、フォン系のトゥーサン・ルーヴェルチュールハイチ革命を担うなどの出来事があった。

19世紀に入ると、1803年のデンマークを皮切りに、イギリスほかヨーロッパ諸国が大西洋奴隷貿易を禁止した[11]。これはダホメ王国の財政基盤に打撃となったが、1818年に即位したゲゾ王はオヨから独立しダホメの最盛期を現出した。ゲゾは奴隷貿易を推進する一方でこの新しい動きにも対応し、パームオイルの原料となるアブラヤシの大量生産を行い、これをフランスなど欧米諸国に輸出したことで勢力を維持した[12]。1858年にゲゾが急死すると、奴隷貿易への圧力は強まり、アベオクタなど周辺諸国の抵抗も激しくなった。アフリカ分割の中でフランスの進出が進み、1890年に第1次フランス=ダホメ戦争(英語版)が勃発。さらに1892年の第2次フランス=ダホメ戦争(英語版)の結果、同年フランスが海岸部を保護領化することとなった。ダホメ国王は北部へ逃亡していたが、1894年に降伏した[13][14]
フランス領ダホメ

ダホメ王国の敗北後、フランスはさらに北部へと進出し、1904年、この一帯はフランス領西アフリカの一部であるフランス領ダホメ1904年-1958年)となった。第二次世界大戦後、フランスは徐々にダホメの政治参加を拡大していった。1946年には本国議会への代表選出と自治議会設立を認め、1958年にはフランス共同体内の自治共和国となった[15]
ダホメ共和国

1960年に自治共和国からダホメ共和国1958年-1975年)として、初代大統領ユベール・マガのもと完全独立した。しかし、北部のバリバ人(英語版)を基盤とするマガ、南部のヨルバ人を基盤とするスル・ミガン・アピティ、同じく南部のフォン人を基盤とするジャスティン・アホマデグベの三者による激しい政争が続いて政情は混乱し、1963年にはクリストファ・ソグロクーデターを起こして政権を奪取。ソグロはすぐに民政移管を行ったものの、以後も三者の政争はやまず、その混乱をついたクーデターも頻発した。1970年に行われた大統領選挙で暴力事件が発生した後、この三者は大統領協議会の設立に合意した。1972年5月7日、マガはアホマデグベに政権を移譲した。

1972年10月26日、マチュー・ケレクが三頭政治を転覆し大統領に就任した。「外国のイデオロギーに縛られることはない。資本主義、共産主義、社会主義のいずれも望まない」と述べていたが、現実にはマルクス・レーニン主義に傾倒してゆき[16]、1972年12月には早くも中華人民共和国と国交を樹立した。1974年11月30日には正式にマルクス主義国家となったことを宣言し、石油産業と銀行を国有化した。1975年11月30日、国名をベナン人民共和国に改名した。
ベナン人民共和国

ベナン人民共和国の政権は一貫してケレクとその政党による一党独裁であったが、いくつかの重要な変化を経験した。1972年から1974年の民族主義、1974年から1982年の社会主義、そして1982年から1990年の西洋諸国と経済自由主義への開放である[17]

大規模な経済・社会開発計画が実施されたが、その結果はまちまちであった。1974年にはじまる社会主義プログラムにより、経済の戦略的部門の国有化、教育システムの改革、農業協同組合と新しい地方政府機構の設立、部族主義を含む「封建勢力」根絶キャンペーンを実施した。また、政権は野党活動を禁止した。中国、北朝鮮、リビアと関係を築き、ほぼ全ての企業や経済活動を国家の統制下に置いたためベナンへの外国からの投資は枯渇した[18]。ケレクは教育の再編を試みたが、教師を含む多くの専門職の国外流出をもたらした[18]

政権資金は、当初はソ連、後にフランスから核廃棄物を受け入れることで調達していたが[18]、1980年代にはベナンの経済状況はますます危機的なものとなった。1982年に15.6%、1983年に4.6%、1984年に8.2%と経済成長率は高かったものの、ナイジェリアとベナンとの国境が閉鎖されたことにより関税と税収が激減した[19]。1989年には、政権が軍隊に支払う十分な資金がないことから暴動が発生した[17]。市民の不安は高まり、学生暴動が発生するなどケレクの権力は弱まる気配を見せた[20]。銀行システムも崩壊するに至り、結局ケレクはマルクス主義を放棄することとなった[21]
ベナン共和国

民主化運動の高まりの中、1990年2月、国内各勢力の代表者を招集して「国民会議」が開催された。会議ではカトリック司教のイシドール・ドゥ・スーザ議長の下で民主化移行政府の設立が決定され、ケレクの職権が大幅に制限されるとともに、暫定政府首相にニセフォール・ソグロが選出された。

1990年3月1日に国名が正式にベナン共和国に変更された[3]。12月には複数政党制三権分立大統領制を骨子とする新憲法が国民投票で制定された[22]。翌年の大統領選挙でケレク政権は敗北し、アフリカ大陸で初めて選挙で政権を失った大統領となった[23]。代わってソグロが大統領に選ばれ、議会もソグロ派が多数を占めた。

ソグロ政権は経済成長を実現したものの政権運営は不安定なものであり、1996年の大統領選挙ではケレクが大統領に復帰した。


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