ベトナム
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地方王権の緩やかな連合体という形態だったチャンパ王国[30] にはヴィジャヤ(英語版)とパーンドゥランガ(ベトナム語版)の2つの核となる地域があったが、1471年に後黎朝の侵攻(チャンパ・大越戦争(英語版))によりヴィジャヤが滅亡した。

黎朝帝室が衰えると権臣の莫登庸による簒奪王朝莫朝が権力を掌握。黎朝復興勢力と莫朝が紅河を挟んで向き合う南北朝時代の戦乱を経て後黎朝は復興したが、北部は帝室を牛耳る東京鄭氏が支配し、中部には広南阮氏による半独立政権が成立し、両者の間で鄭阮戦争が起こった。このころ、日本は広南阮氏と交易し、ホイアンに日本人町ができ来遠橋などが建てられた。

広南阮氏は、1611年からパーンドゥランガの領土を侵食し始める。鄭阮戦争の難民がメコンデルタへ流出すると、カンボジアのチェイ・チェッタ2世(英語版)(在位:1618年-1628年)は、プレイノコール(: Prey Nokor、現ホーチミン市)に難民を受け入れ及び徴税のために税関事務所を建設することを許可した。これによってメコンデルタのベトナム化が進行したことで、広南阮氏の南下を呼び込む結果になる。1681年ダナン沖に明朝遺臣を名乗る楊彦迪(ズオン・ガン・ディック、D??ng Ng?n ??ch)、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Tr?n Th??ng Xuyen)らの率いる50隻余の艦隊が出現して広南国への亡命を申し出ると、広南国はメコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった[31]

1693年に広南阮氏の武将阮有鏡(ベトナム語版)がパーンドゥランガを征服した。1708年に現在のキエンザン省カマウ省に勢力を伸ばしていた?玖の半独立国「港口国」がカンボジア王を裏切り、広南阮氏に朝貢するようになる。広南阮氏は、阮福濶の時代にカンボジア領であったメコンデルタ下流のクメール人居住領域の併合を行う。
西山朝

1771年に西山阮氏による西山党の乱が起こり、1777年に広南阮氏を滅ぼした。1785年シャムの支援を受けた広南阮氏の残党・阮福暎がメコンデルタ地帯に攻め込んだが(ラックガム=ソアイムットの戦い)、阮恵(グエン・フエ)率いる西山阮氏はこれを撃退した。阮恵は軍を北に向け鄭氏もまた滅ぼし、西山朝が成立した。1789年には、北部に辛うじて存在していた後黎朝の昭統帝乾隆帝に援軍を求めて始まった干渉戦争のドンダーの戦いでも阮恵が勝利し、後黎朝も滅んだ。阮福暎は、フランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌを始めとする外国勢力やチャンパ遺臣の助けを得て西山朝と戦った。
阮朝ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かれた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されている。

西山朝に内紛の兆しが見えると、阮福暎1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝(1802年 - 1945年)を興こした。1830年代には港口国が阮朝の支配下に入り、チャンパ遺臣の自治領も完全に阮朝に吸収され、現在の統一国家ベトナムの形がほぼ完成する[注 1]

この節の加筆が望まれています。

フランス植民地支配フランス軍支援のために組織された現地兵部隊リンタップ(vi:Linh t?p)の伍長。1916年。

1847年4月15日、フランス軍艦がダナン艦砲射撃し、フランスの侵略が始まる(ダナンの戦い(英語版))。1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊がダナンに侵攻(コーチシナ戦争(英語版)、1858年-1862年)。1862年6月、第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を割譲。1867年6月、フランス領コーチシナが成立。1874年3月、第2次サイゴン条約でフランスに紅河通商権を割譲。1882年4月、フランスがハノイを占領した。

1883年6月、トンキン戦争(英語版)(1883年6月 - 1886年4月)が勃発。8月、癸未条約(英語版)(第1次フエ条約、アルマン条約)でアンナントンキンがフランスの保護領となる。1884年5月、天津停戦協定(英語版)(李・フルニエ協定)を締結。6月、甲申条約(英語版)(第2次フエ条約、パトノートル条約)で清への服従関係を絶つ。

1884年8月、清仏戦争1884年8月 - 1885年4月)が勃発。1885年6月、天津条約で、清は宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。1887年10月、フランス領インドシナ連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)が成立し、フランスにより植民地化された。日本では「仏印」と呼ばれた。
反仏独立運動

フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者としてホアン・ホア・タム(黄花探、通称「デ・タム」)などが知られる。

1904年ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デ維新会を結成。1905年、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて来日(東遊運動)。1907年、en:Gilbert Tr?n Chanh Chi?uとFrancois-Henri SchneiderらによってL?c T?nh Tan V?n(六省新聞、1907年 - 1908年)がサイゴンで発行される。1912年広東ベトナム光復会を結成。

1913年、Nguy?n V?n V?nhとFrancois-Henri Schneiderらによって初のチュ・クオック・グー新聞の『?ong D??ng t?p chi』(『東洋雑誌』、1913年 - 1919年)がハノイで発行される。1916年、コーチシナ蜂起(英語版)。1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織。1923年、Di?p V?n K?によってチュ・クオック・グー新聞『Dong Phap Th?i Bao』(『東法時報』、1923年 - 1928年)がサイゴンで発行される。1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党(インドシナ共産党)を設立。1930年に、イエンバイ省グエン・タイ・ホックベトナム国民党によるイエンバイ蜂起ゲアン省ハティン省ゲティン・ソヴィエトベトナム語: Xo Vi?t Ngh? T?nh、Nghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。

1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。
第二次世界大戦詳細は「第二次世界大戦」を参照

1940年ナチス・ドイツのフランス侵攻により、フランスは北部を占領され、南部にはドイツに協力するヴィシー政権が樹立された。これに伴い、日本軍が北部仏印進駐1941年タイ王国とフランス(ヴィシー政権)の間にタイ・フランス領インドシナ紛争が発生した。日本政府東京条約でこれを仲裁した直後に南部仏印進駐を決行。米英蘭との対立を深めて太平洋戦争に突入し、仏印は南方作戦マレー作戦マレー沖海戦タイ進駐)における日本軍の策源地となった。

1944年ヴォー・グエン・ザップが武装宣伝旅団(ベトナム語版)(ベトナム人民軍の前身)を組織。


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