ベトナム
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詳細は「ベトナムの歴史」を参照
石器文化

今からおよそ30 - 40万年前の地層から人類ハノイ北方のタムハイにあるタムクエン洞窟(ランソン省)で発見されている。他の場所からも、例えばクアンイエンのド山(タインホア省)、スアンロク(ドンナイ省)から打製石器剥片石器がたくさん発見されている。また、タムオム(ゲアン省)、ハンフム(イエンバイ省)、トゥンラン(ニンビン省)、ケオレン(ランソン省)などからも人類の足跡が発見されている[27]

今からおよそ2 - 3万年前、現代人(現生人類)の祖先と言われている新人(ホモ・サピエンス)が現れた。彼らの遺跡は、グオム石窟(タイグエン省)、ソンビー(フート省)やライチャウ、ソンラ、バクザン、タインホア、ゲアンの各省にみられる。彼らの道具の主なものは石斧で、万能石器である[28]

最終氷期が終わり、地球規模で温暖化が始まった約1万年前から4000年前の人類の遺物や洞窟が発見されている。ホアンビン、バクソン(ランソウン省)、クインバン(ゲアン省)、ハロン(クアンニン省)、バウチョー(クアンビン省)では、前段階よりも石器が改良され、多種の石材を使い様々な用途に使用できる石器が製作されるようになっていた。今までの打製石器だけではなく刃を研磨した道具の短斧・右肩石斧などの磨製石器がつくられている。その他には、自然石の礫石器や動物の骨や歯を利用した骨角器が造られた。また、パクソン、クインバン、ハロンでは、土器を伴い、石製のが見つかっている。これらの遺物から生活様式が発展したことがうかがえる。たとえば、土器の使用により、煮炊きでき、食物を保存できるようになり、生活が豊かになってきた。さらに鋤や鍬で森・土地を開墾して農業ができるようになったと推測できる。さらに動物の骨から道具を作っていることから、を飼って畜産を行っていたと考えられる。また、農業や畜産を行うことにより、一定の場所に住み着き、狩猟や採取、場所によっては漁撈が可能になっていたと考えられる[29]
青銅器文化ドンソン文化銅鼓

部族国家群鴻?朝(英語版)(現フート省付近の文郎国、山岳部の甌越(ベトナム語版)、紅河デルタ?越など)を形成していた。これが古越人(後のベト族)である。紀元前4世紀ごろから、東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が、北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯に広がった。始皇帝によって象郡が置かれ、郡県支配を受けた。蜀?によって文郎国、甌越、?越が統合され、甌?紀元前257年 - 紀元前207年)が成立し、コロアを王都とした。紀元前207年に南越国が成立し、甌?を併合した。
北属期詳細は「北属期」を参照

北部 - 紀元前111年漢の南越国征服で漢の武帝が遠征して南越国が滅亡。第一次北属期(en、紀元前111年 - 39年)に入り、交州交趾郡日南郡など9郡)と呼ばれた。40年チュン姉妹が蜂起したチュン姉妹の反乱が起こるが、後漢に制圧され第二次北属期(en、43年 - 544年)が始まる。6世紀の終わりごろに(581年-618年)が中国を統一し、交州総督府を設けた。544年李賁前李朝を興して独立。602年、隋李戦争(英語版)で隋が前李朝に侵攻し、第三次北属期(en、602年 - 938年)に入る。次代の唐 (618-907) に引き継がれ安南都護府となる(安南という呼称の始まり)。755年安史の乱が起こると支配は動揺し始め、南詔ハノイの安南都護府を占領した(862年 - 866年)。

中部 - 192年オーストロネシア語族系統の古チャム人(後のチャム族)が日南郡で、インド化されたチャンパ王国を形成して後漢から独立。734年平群広成らの乗る日本遣唐使船第3船が暴風雨で難破し、崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕縛された。後に脱出して長安に戻り、渤海経由で日本に帰国した。

南部 - 扶南国1世紀 - 6世紀)、真臘(6世紀 - 8世紀)。

越人王朝の形成

北部 - 唐末
五代十国の混乱で中国の支配が後退すると939年白藤江の戦いで最初の民族王朝呉朝が成立(北属期の終わり)。965年十二使君の乱が起こり、966年丁朝が成立。980年黎桓前黎朝を興し、981年白藤江の戦い軍を追い返すことに成功。1001年李朝の成立。宋は「安南国」を朝貢国として承認した。1054年に国号を「大越」としたが、19世紀に至るまで中国は「安南」と呼んだ。国内では「大越」(ダイベト、大いなる「越」)であった。昇竜(タンロン、後のハノイ)に遷都。以後、越人の王朝「大越」は南のチャンパと抗争を繰り返した。1225年、李朝との婚姻から陳太宗へ譲位させることに成功し、陳朝が成立。

中部 - チャンパ王国

南部 - クメール王朝

モンゴルの侵攻

モンゴル帝国に連なるが中国を支配した13世紀に、皇帝のクビライは3度にわたるベトナム侵攻(英語版)(元越戦争)を行った。1258年、第1次元越戦争(ベトナム語版)。1283年、第2次元越戦争(ベトナム語版)。1287年、第3次元越戦争(ベトナム語版)。1288年白藤江の戦いで敗北した元の侵攻軍は敗走した。
第四次北属期

14世紀に陳朝の都昇龍(タンロン)を2度攻略した制蓬峩(チェーボンガー、Ch? B?ng Nga)の死後、チャンパ王国では羅皚による王位簒奪が起こった。陳朝に代わった胡朝がチャンパ王国へ逆侵攻すると、羅皚の子である巴的吏が、元に代わった中国・永楽帝に援軍を求めて干渉戦争明胡戦争(英語版)(明・大虞戦争)が起こり、1407年に胡朝は滅亡。第四次北属期(英語版)(1407年-1427年)となり、明よって「交阯」(Jiaozhi、Giao Ch?、交趾)との地名で呼ばれた。
南進時代

藍山蜂起1418年 - 1428年)で明軍を追い出した黎利(レ・ロイ)により後黎朝が起こる(1428年 - 1788年)。


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