ベトナム戦争
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イギリスやアメリカ、中華民国などの連合軍と、今や本国が友邦ドイツの敵国の自由フランスの手に落ちたフランス植民地軍との挟撃の可能性を断つために、1945年2月28日に大本営は南方軍総司令官に対してフランス領インドシナの武力処理・明号作戦を通達する[36]。現地フランス軍は9万人、日本軍は4万人であったため、奇襲攻撃を3月9日午後10時にインドシナ全域で開始、翌日午前中までにはフランス植民地軍とフランスインドシナ植民地政府を制圧する[36]バオ・ダイ皇帝は涙を流しながら「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と語り[36]、3月11日にはベトナム帝国樹立を宣言する。

当時ベトナムでは「日本は笑い、フランスは泣き、中国は心配し、独立したベトナムでは餓死者が道に溢れる」とうたわれ[37]、ハノイの雑誌「タインギ」編集長のヴー・ディン・ホエは日本による独立付与を「天から降ってきた独立」と表現した[38]。他方、ベトミン中央委員会は3月12日、闘争指令を発し、日本軍に対する攻撃を各地で活発化させる[39]。大飢饉の問題については日本軍が引き続き食料供出を要求していたこともあり、このような「独立付与」の枠内では飢饉を解決することはできず、ベトミンによる「日本の倉庫を襲撃せよ」という運動は北部農村で浸透していった[40]
ベトナム八月革命
日本敗戦とベトナム八月革命

1945年8月10日午後8時に日本政府がポツダム宣言受諾を連合軍に通知したとの短波放送を行い、8月12日午前0時頃、サンフランシスコ放送は連合国の回答を放送した[41]。ラジオで情報を得たホーチミンは日本軍降伏を革命のチャンスとみなし、フランス軍の再進駐より前に実権を奪うことを計画する[41]8月13日からのアンザン省タンチャウ総司令部での会議では、中華民国やイギリス、アメリカとの紛争を避けて、「味方を多く、敵を少なく、すべての侵略に反対する」という方針が決定された[42]

なお、結果的に日本が降伏した8月15日以降、アメリカ軍は9月4日、中華民国軍は9月9日、イギリス軍は9月13日、フランス軍は10月5日に至るまでベトナムに上陸しなかったため(マスタードム作戦)、日本軍は武装を解かれず、駐屯フランス軍部隊は明号作戦から拘束されたままという状態が生じ、この政治的空白も独立派に有利に働くことになった。
ハノイ・クーデター

1945年8月17日に、ベトナム帝国首相のチャン・チョン・キムがハノイ市民劇場前広場で「独立を与えた日本は敗れたが、ベトナムは心を一つにして我々の政権を築こう」とフランスの復帰を警戒する内容の演説を行った[27][43]。このとき、ベトミンが金星紅旗をあげるなかマイクを奪い、「独立万歳」、「打倒ファシスト」、「日本は独立をやってくれたがこれからはみんなで働こう」といった声があがった[27][44]。8月19日にはベトミンの大会が開かれ、20万人のデモ隊は市庁舎や日本軍が手放した保安隊や警察署など政府機関を次々と占拠し、ハノイ・クーデターが成功する[27][45]。8月20日にはフエの王宮にいたベトナム帝国皇帝バオ・ダイに対して、ベトミン革命軍事委員会が退位を要求、24日、バオ・ダイ帝は退位する[27]。こうして143年続いた阮朝(グエン王朝)は滅亡した。23日から25日にかけて駅、中央郵便局、発電所などが占拠され、26日にはベトミン軍がハノイに入城、28日にベトナム民主共和国臨時政府が樹立された[27]
ベトナム独立宣言

9月2日ホー・チ・ミン(胡志明)は「ベトナム独立宣言」を発表、すべての民族は平等であり、1847年のフランス軍艦によるダナン攻撃事件以来、80年にわたるフランスの植民地支配を人道と正義に反するものとして糾弾した[27][46]。こうしてベトナム八月革命は成功し、ハノイを首都とするベトナム民主共和国(北ベトナム)が樹立し、共産主義国家建設を目指した。ホーはアメリカのハリー・S・トルーマン大統領に国家としての承認を繰り返し書簡で求めた[47] が、同盟国であるフランスに対する気遣いとともに、共産主義者による統治を警戒するアメリカ政府はとりあげなかった[48]。また、新設された国際連合にもフランス植民地支配についての公正な解決を訴えたが、徒労に終わった[47]
インドシナ戦争
連合軍・自由フランス軍の再進駐

第二次世界大戦末期の戦後統治計画を練るなか、自由フランスのシャルル・ド・ゴールを嫌っていたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は「フランスはインドシナを植民地にしてから何か発展させたことがあったか。あの国は百年前よりひどくなっている」とフランスのインドシナ植民地を批判し、インドシナ信託統治を構想していた[49]。しかし、イギリスは信託統治をしたらイギリス帝国がなくなってしまうとして反対し、新たにフランスの事実上の指導者となったド・ゴールは1945年3月24日にインドシナ連邦を構築し、フランス総督が統轄し、フランス連合に組み入れると声明を発表し[49]、植民地時代の復帰を求めた。

ルーズベルトが1945年4月12日に死去してからアメリカ国務省はインドシナ問題を検討し、4月20日に国務省欧州担当官はルーズベルトのあとを継いだトルーマンに対して「アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対すべきでない」と、反共主義の立場から進言し、同極東担当官も翌日同内容の進言を行った[50]。6月22日にアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認する」との統一見解を決定する[50]

1945年7月26日連合国によって開かれたポツダム会議で、「インドシナは、北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めない」と決定された。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言を受けて、南部に進駐していた駐英領インド軍のダグラス・グレイシー将軍は騒乱を理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめる[51]9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。

これらの連合国軍は、日本軍の収容所に入れられていたフランス軍将兵を解放し、9月23日午前5時、英領インド軍の援助で武装した1000名のフランス軍がサイゴン侵攻を開始、主要な公共機関を占拠し、フランス国旗を掲げ、サイゴン全域を制圧した[52]。英領インド軍のグレイシー将軍は戒厳令を敷いた[52]。こうした英軍の行動について読売新聞編集員の小倉貞男は「英国はアジアにも植民地をもっており、インドシナの独立によって、植民地支配を崩そうとする連鎖反応が起こることを極度に警戒していた」と指摘している[52]


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