フランス第三共和政時代の1874年3月、第2次サイゴン条約を締結、フランスは紅河通商権を割譲させる。1882年4月にはハノイを占領する。1883年8月には第1次フエ条約(アルマン条約
、癸未条約)を締結しベトナムがフランスの保護国になる。翌1884年6月には清への服属関係を断つ第2次フエ条約(パトノートル条約、甲申条約)締結に成功する。その2か月後にベトナムへの宗主権を主張する清との間で清仏戦争がはじまる。1885年6月9日に締結された講和条約である天津条約(李・パトノートル条約)では清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権を認めた。1887年10月、フランス領インドシナ連邦が成立する。こうしてベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。1889年4月にはラオス保護国を併合した。1900年代になると、ベトナム知識人の主導で民族主義運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日露戦争でアジアの一国である日本がヨーロッパの帝国の一つであるロシア帝国に勝利したことに感銘を受けて大日本帝国に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが植民地解放を支援し、ベトナムの民族運動も、コミンテルンとの連携のもとで展開していく。こうしたなか、1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たし、ベトナム民族が独立することは1945年のベトナム独立宣言でも謳われ、のちの第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)でも、理念であり続け、戦争を持続させた原動力であった。 日中戦争当時、英米は援?ルートを通じて中華民国の?介石率いる国民党軍拠点の重慶に支援物資を輸送していた。援?ルートのうち、フランス領インドシナのハイフォン港から昆明、南寧までの鉄道輸送を行う仏印ルートが重要なものであった[27][28]。 1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年にはフランスがドイツに敗北し全土をドイツ軍の占領下に置かれ、その後親独政権であるヴィシー政権が成立した。これを受けてフランスの植民地政権がヴィシー政権側につくことを選択したことで、1940年7月27日にドイツとの間で日独伊三国同盟を結んでいた日本政府(第2次近衛内閣)は「時局処理要綱」において仏印進駐を決定。8月30日に松岡・アンリ協定が結ばれ、ヴィシー政権およびフランス植民地政府が日本の経済的優先権および軍事的便宜を認める見返りとして、日本がインドシナにおけるフランスの主権とインドシナの領土保全を約束することで合意した。 このため仏印進出は平和進駐となることが通達されていたが、9月22日には大日本帝国陸軍が越境し、これを受けてフランス軍と第5師団(中村明人中将)が衝突し、日本軍がランソンを軍事制圧する。9月26日に日本軍は北部インドシナに進駐し、仏印援?ルートは遮断された。国境監視団は澄田?四郎少将(澄田機関
日本軍進駐とベトナム独立
その2か月後にフランス軍が再度ランソンに進軍[30]。このとき、澄田機関から独立運動を応援するといわれていたチャン・チョン・ラップらが決起するが、フランス軍に制圧され、青年独立義兵が多数処刑されるランソン事件が起こる[30]。逃れた義兵は中華民国でベトミンに合流するが、この事件は日本軍がベトナムの愛国者を見殺しにした事件としても記憶される[30]。
ベトナム大飢饉とベトミン
(1945年ベトナム飢饉も参照)
ヴィシー政権統治下および日本軍進駐下における1944年末から1945年にかけてのベトナム北部で大飢饉が発生し、20万人[31]以上、ホーチミンの主張では200万人[32]が餓死する事態が発生する。コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンを指導者とするベトミン(ベトナム独立同盟)武装解放宣伝隊は「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の反日感情が爆発した[32]。また、フランス政庁も反日感情をあおるために保有米を廃棄するなどした[33]。この飢饉がベトミンの勢力拡大の決定的な機会となった[34]。
フランス植民政府の制圧とベトナムへの「独立付与」
日本は1943年5月の御前会議で「大東亜政略指導大綱」を決定し、イギリスの植民地であったビルマと、アメリカの植民地であったフィリピンの独立を承認[35]、戦局が悪化しつつあった1944年9月には、小磯国昭首相がオランダの植民地であったインドネシアの独立承認を言明する。フランス領インドシナについては、1944年8月に連合国軍と自由フランスによるフランス全土の開放によってヴィシー政権が崩壊すると、仏印処理によって即時独立付与が実施される。
イギリスやアメリカ、中華民国などの連合軍と、今や本国が友邦ドイツの敵国の自由フランスの手に落ちたフランス植民地軍との挟撃の可能性を断つために、1945年2月28日に大本営は南方軍総司令官に対してフランス領インドシナの武力処理・明号作戦を通達する[36]。現地フランス軍は9万人、日本軍は4万人であったため、奇襲攻撃を3月9日午後10時にインドシナ全域で開始、翌日午前中までにはフランス植民地軍とフランスインドシナ植民地政府を制圧する[36]。バオ・ダイ皇帝は涙を流しながら「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と語り[36]、3月11日にはベトナム帝国樹立を宣言する。