ベトナム戦争
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1970年には、南部の共産党軍の70%以上が北部人となり、南部人を主体としたベトコン部隊は存在しなくなった[11]。活動は国境を越えて行われた。北ベトナムは早くからラオスを補給路として利用していたが、1967年からはカンボジアも利用していた。カンボジアを経由するルートは1969年からアメリカの爆撃を受け始めたが、ラオスのルートは1964年から激しい爆撃を受けていた。カンボジア国民議会が君主ノロドム・シハヌークを退陣させたことにより、クメール・ルージュの要請を受けた北ベトナム軍の侵攻を受け、カンボジア内戦が激化し、米軍・ベトナム共和国陸軍の反攻(カンボジア作戦)を受けることになった。

1969年、リチャード・ニクソン大統領の当選を受けて、「ベトナミゼーション」政策が開始された。この政策により、紛争は拡大したベトナム共和国陸軍によって戦われることになり、米軍は国内の反発や徴兵の減少により、ますます士気が低下していったのである。米軍の地上部隊は1972年初めまでにほぼ撤退し、支援は航空支援、砲兵支援、顧問、物資輸送に限られていた。ベトナム共和国陸軍は、米国の支援に支えられ、1972年のイースター攻防戦で、最初で最大の機械化された北ベトナム軍の攻勢を阻止した。この攻勢は双方に大きな犠牲をもたらし、北ベトナム軍は南ベトナムを制圧することが出来なかったが、ベトナム共和国陸軍自身も全ての領土を奪還することが出来ず、その軍事的状況は厳しいものであった。1973年1月のパリ協定により、米軍は全て撤退し、8月15日に米議会で可決されたケース・チャーチ修正条項により、米軍の直接的な関与は正式に終了した[12]。和平協定はすぐに破棄され、戦闘は更に2年間続いた。1975年4月17日、プノンペンがクメール・ルージュにより陥落し、4月30日には1975年春の攻勢で北ベトナム軍がサイゴンを占領し、最後のアメリカ兵がヘリコプターでサイゴンを脱出し、戦争は終結した。その時、ホーチミン死後6年を経過していた。北ベトナム及び民族解放戦線は、膨大な犠牲者と荒廃した国土を引き換えに、勝利者として国際社会から認定され、翌年には南北ベトナムが統一された。

戦争の規模は膨大であり、被害は甚大である。1970年までに、ベトナム共和国陸軍は世界で4番目に大きな軍隊となり、北ベトナム軍も約100万人の正規兵を擁していた[13]。また、民間人含むベトナム側は300万人以上、米軍兵士5万8,220人、カンボジア人27万5,000?31万人、ラオス人2万?6万人が死亡し、さらに1,626人が行方不明となっている。ベトナムは米国が太平洋戦争で使用した弾薬の2.4倍を国土に投下され、 7200万リットルの枯葉剤を南部 70万ha に投下され、3世、4世にまで被害が出続けている。

ベトナム戦争の小康状態を経て、中ソ対立が再燃した。北ベトナムとその同盟国であるカンボジアのカンプチア王国政府、および新たに結成された民主カンプチアとの間の紛争は、クメール・ルージュによる一連の国境侵犯でほぼ開始され、最終的にはカンボジア・ベトナム戦争へと発展していった。中国軍がベトナムに直接侵攻した中越戦争では、その後1991年まで国境紛争が続いた。統一されたベトナムは、3つの国で反乱軍と戦った。この戦争が終わり、第3次インドシナ戦争が再開されると、ベトナムのボートピープルや、より大きなインドシナ難民危機が引き起こされることになる。数百万人の難民がインドシナ(主にベトナム南部)を離れ、そのうち25万人が海で死んだと推定されている。アメリカ国内では、この戦争をきっかけに、アメリカの海外での軍事活動に嫌悪感を抱く「ベトナム・シンドローム」と呼ばれる現象が発生[14] し、ウォーターゲート事件と相まって、1970年代のアメリカを支配した信頼の危機を引き起こした[15]
フランス植民地時代とベトナム独立運動
フランス帝国によるベトナム侵略「フランス領インドシナ」、「ベトナムの歴史」、および「ベトナム#フランスとの関係」も参照

19世紀ベトナム阮朝)はフランス帝国の植民地となる。7月王政時代のフランス帝国(フランス植民地帝国国王ルイ=フィリップ1世は、1834年にアルジェリアを併合し、1838年にはメキシコ菓子戦争を起こして介入、1844年にはアヘン戦争で敗れた黄埔条約を締結した。そして、1847年4月、ベトナムの植民地化を図り、フランス軍艦によるダナン砲撃によるインドシナ侵略を始める。1860年ナポレオン3世
ナポレオン3世のアジア太平洋進出

フランス第二帝政ナポレオン3世も東方へのフランス勢力拡大に熱心で、フランス海軍司令官に大幅な自由裁量権を与え、アジア太平洋地域では強硬な帝国主義政策が遂行された[16]。太平洋では、ニュージーランドを併合したイギリスへの対抗、またオーストラリアとの貿易の拠点および犯罪者の流刑地にする目論見で1853年にニューカレドニアを併合した[17][18]

1856年10月にイギリスがアロー号事件を口実に清へ出兵すると、フランスも清の江西省フランス人宣教師のオーギュスト・シャプドレーヌが殺害された事件を口実として清への出兵を開始し、英仏は協力してアロー戦争を遂行する(第二次アヘン戦争)[19]。フランスは清侵略と並行して清周辺地域への侵略も開始し、同1856年、阮朝(ベトナム)に対して不平等条約締結に応じるよう要求したが、阮朝が拒否したため、スペイン人宣教師死刑を口実として1857年よりベトナム侵攻を開始し、1858年9月にはフランス・スペイン連合艦隊によって再度ダナンに侵攻する。同1858年、英仏軍による北京陥落を恐れた清政府は天津条約の締結に応じ、一時終戦した。しかし、英仏軍が撤収するや清政府は条約批准を拒否して発砲、1860年に英仏軍が攻撃を再開、北京は陥落する。清はさらに不利な北京条約を締結させられた[20]。フランスは日本とも1858年徳川幕府との間に不平等条約日仏修好通商条約を締結したが、ここでは英仏の協調は崩れ、フランスは徳川幕府、イギリスは薩長を支持して対立、幕府は明治維新で倒れ、また明治政府は対等外交を志向したため、幕府を通じて日本に影響力を行使しようとした目論見は潰えた[21]

フランスはその後1862年6月に阮朝に不平等条約であるサイゴン条約を結ばせ、南部3省を割譲させた[22][23]。阮朝の宗主権下にあったカンボジア王国では、カンボジア人の反ベトナム感情を利用して1863年にフランス保護国に組み込むことに成功した[24]。1866年には李氏朝鮮に対してフランス人宣教師死刑を口実に戦争を仕掛けたが(丙寅洋擾)持久戦に持ち込まれ、撤退した[25]。1867年6月にはベトナム南部のコーチシナへ侵攻し、併合に成功[26]シャムタイ)にも英米に続いて不平等条約を締結させたが、フランスとの対立激化を恐れたイギリスが同地を緩衝地帯にすることを望み、フランスのタイ分割案を牽制したこともあって、タイは植民地化をまぬがれた。
清仏戦争とベトナムの保護国化
フランス第三共和政と清仏戦争

フランス第三共和政時代の1874年3月、第2次サイゴン条約を締結、フランスは紅河通商権を割譲させる。1882年4月にはハノイを占領する。1883年8月には第1次フエ条約(アルマン条約、癸未条約)を締結しベトナムがフランスの保護国になる。翌1884年6月には清への服属関係を断つ第2次フエ条約(パトノートル条約、甲申条約)締結に成功する。


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