ベツレヘム
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ダビデがアドラムの洞窟に隠れている際に3人の勇士が水を汲んできた井戸はベツレヘムの井戸である[17]史料とキリスト教の伝承によると、イエス・キリストはベツレヘムに生まれた。

4世紀ごろに記されたボルドーの巡礼者の旅行記ではダビデやエゼキエル、アザフ、ヨブソロモンの墓がベツレヘムの近くにあったという[18]。これについては確たる証拠は何一つ存在しない。
古代ローマの時代ベツレヘム, 1882年

132年から135年にかけバル・コクバの乱が起こったが結局ローマにより再度占領された。ユダヤ人の住民はハドリアヌスの軍隊に追い出された[19]。ローマ人はギリシャ神話アドーニスの神殿を生誕の地に建てた[20]。東ローマ帝国初代皇帝コンスタンティヌス1世の母親、聖ヘレナが326年にベツレヘムを訪れたとき聖誕教会は建立された[4]

529年に起きたサマリア人の反乱時にベツレヘムは略奪され都市の壁と聖誕教会は破壊されたが、ユスティニアヌス1世の命により再建された。614年、ペルシャはユダヤ人の反乱に乗じ、パレスチナ・プリマ(第1パレスチナ)に侵攻、ベツレヘムを奪った。口伝によれば東方三博士がペルシャの装束で描かれていたため彼らは教会を破壊しなかった[4]
イスラム教と十字軍の時代

637年、エルサレムが占領された直後、ウマル・イブン・ハッターブによりキリスト教徒が聖誕教会を使用することを認められた[4]。彼の名を冠したオマールのモスク(英語版)(ウマルのモスク)は彼が祈りを捧げた場所である教会の隣に、後の時代(1860年)に建設された[21]。ベツレヘムはその後8世紀中はウマイヤ朝が支配し、9世紀にはアッバース朝が支配した。ペルシャ人の地理学者は9世紀中ごろに、よく保護され非常に崇敬されている教会があったと記している。985年、アラビア人地理学者アル・ムカッダーシーはベツレヘムを訪れ、その教会を「コンスタンティヌスのバシリカ、国中探してもこれほどのものは見つからない。」と記した[22]。1009年、ファーティマ朝第6代カリフ、ハーキムは聖誕教会の破壊を命じたが地元のムスリムにより破壊は免れた。なぜなら彼らは南の翼廊で拝礼することが許されていたからである[23]

1099年、ベツレヘムは十字軍によって占領された。彼らは要塞化し聖誕教会の北側に新しく修道院を建てた。東方正教会の神父はその座から追い出され、代わりにカトリックの神父が納まった。その時点まではこの地域はエルサレム総主教庁(東方正教会)の管轄であった。1100年のクリスマス、ボードゥアン1世はベツレヘムでエルサレム王に戴冠した。また、同年にベツレヘムはカトリックの管轄となった[4]

1187年、アイユーブ朝のサラディンは十字軍の手からベツレヘムを取り戻した。カトリックの神父たちは退去させられた。1192年にはサラディンは2人の司祭と2人の助祭が戻ることを認めた。しかし、ヨーロッパの巡礼者は急激に減少し、彼らとの商取引が減ったことはベツレヘムにとって悩みの種となった[4]

ヌヴェール伯ギヨーム4世はベツレヘムの司教に、ムスリムの手によって陥落した場合はクラムシーの小さな町に招待することを約束し、1223年に司教はクラムシーに住み着いた。クラムシーには形だけの(in partibus infidelium)ベツレヘム司教座が1789年のフランス革命まで約600年間存在し続けた[24]

ベツレヘムは1229年にエルサレム、ナザレサイダとともにアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミル神聖ローマ帝国フリードリヒ2世の間で取り交わされた条約により、10年間の休戦を条件としてエルサレム王国に割譲された。条約は1239年に失効しベツレヘムは1244にムスリムによって奪還された[25]

1250年にバイバルスの下でマムルークの権力が強まり、キリスト教に対する寛容さは失われていった。神父たちは町を去り、1263年に都市の壁は破壊された。次の世紀にはカトリックの神父はベツレヘムに戻り、聖誕教会に隣接する修道院でその地位に就いた。エルサレム総主教庁(東方正教会)は聖堂の管理権を与えられ、ミルク・グロットをカトリックとアルメニア正教で共同管理することになった[4]
オスマン帝国とエジプトの時代オマールのモスク, 1860年にウマルがベツレヘムで祈りを捧げたことを記念して立てられた。ベツレヘム, 1898年ベツレヘム市街, 1880年

オスマン帝国支配下の1517年から、教会の管理についてカトリック教会と正教会の間で論争が巻き起こった[4]。16世紀の終わりまでに、エルサレム行政区の中で有数の都市となっており、7つの地域に細分化された[26]。この時期 Basbus 家は、ベツレヘムの長として仕えていた[27]。1596年から始まるオスマンの納税記録と人口調査では、ベツレヘムは人口1,435人で、当時のパレスチナでは13番目に大きい都市であり、その総収入は30,000アクチェであった[28]

小麦、大麦、ぶどうに課税されていた。ムスリムとキリスト教徒は異なるコミュニティーを形成し、それぞれの指導者を持っていた。5名の指導者が16世紀中ごろには存在し、そのうち3名はムスリムだった。納税記録によればキリスト教徒の税収は多く、人口が多かった、あるいはブドウよりも税収の多い穀物の栽培に力をいれていたのかもしれない[29]

1831年から1841年にかけて、パレスチナはエジプトのムハンマド・アリー朝の支配下にあった。この時期に街は地震に襲われた。1834年にイブラーヒーム・パシャによる反乱鎮圧の一環として、エジプト軍によりムスリム地区が破壊された[30]。1841年、反乱は鎮圧され、第一次世界大戦が終わるまで、オスマン帝国の支配下となった。オスマン支配下では、失業や徴兵制度、重い課税などの様々な問題に直面し、その結果、大量の移民が発生した。特に南アメリカに移住する者が多かった[4]。1850年代に、あるアメリカ合衆国の宣教師は、人口は4,000人以下で、ほぼ全員が正教会に属していると伝えている。彼は、水不足が町の発展を妨げているとも伝えている[30]
近代

1920年から1948年までベツレヘムはイギリス委任統治領パレスチナの一部であった[31]。1947年の国際連合総会におけるパレスチナ分割決議案で、ベツレヘムは国連統治地域となった[32]。ヨルダンは第一次中東戦争時にベツレヘムを占領し[33]、1947年から1948年にかけてイスラエルの占領地から多数の難民がベツレヘム地域に逃れてきた。正式な難民キャンプとなった北部のアイダ・キャンプ、アッザ・キャンプ(ベイト・ジブリン)と南部のデヘイシャに主に居住した[34]。難民の流入によって多数派はキリスト教徒からムスリムに変わった[35]

ベツレヘムは、1967年の第三次中東戦争(六日間戦争)で他のヨルダン川西岸地区とともにイスラエルに占領されるまでヨルダンが支配した。この後にイスラエルはベツレヘムを支配し、1995年、イスラエルは暫定自治拡大合意(英語版)(オスロU)に基づき、パレスチナ自治政府に引き渡した。ベツレヘムのイスラエル軍兵士, 1978年

今日、ベツレヘム近隣の町、居住区は西にベイト・ジャラ、東にベイト・サフール、南にデヘイシャ、北(エルサレム付近)にハル・ホマが存在する。しかし北側はイスラエル西岸地区の分離壁によって隔てられている。
現在ベツレヘムの聖心イエス会の司祭たちの住居, 2008年

1995年12月21日にイスラエル軍はベツレヘムから撤退[36]、その3日後1995年の暫定自治拡大合意に準拠して、パレスチナ自治政府は都市と軍を支配下に治めた[37]


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