ベオグラード
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2世紀中期、町はローマ帝国のムニキピウムとされ、2世紀の末にはローマ帝国の都市制度の中で最も上位にある植民市(コロニア)に昇格した[11]

初のキリスト教徒のローマ皇帝は、今日のセルビアのニシュ280年に生まれたコンスタンティヌス1世であった[29][30]。ベオグラード出身でローマ皇帝となったヨウィアヌス(332年生まれ)は、キリスト教を再導入した[31]。ヨウィアヌスはローマ帝国国教としてキリスト教を再導入し、前任者ユリアヌスによる異教の復興に終止符を打った。395年、この地域は東ローマ帝国へと引き継がれた[27][32]

シンギドゥヌムからサヴァ川を挟んで対岸にはケルト人の町タウルヌム(Taurunum、今日のゼムン)があり、ローマ時代、東ローマ時代を通じてシンギドゥヌムとタウルヌムの両都市は命運を共にした[33]。両都市は橋で結ばれていた。
中世rightベオグラード要塞ナーンドルフェヘールヴァール(ベオグラード)包囲(1456年)

シンギドゥヌムは630年頃にスラヴ人が移住するまでの間、フン族サルマタイゲピド族東ゴート族アヴァールなどによる侵入を度々受け、また破壊された。500年代初期、アヴァールの侵入を受けるまでの間、ゲピド王国の中心地として機能した。9世紀初頭、アヴァールが最終的にフランク王国によって崩壊すると[34]、シンギドゥヌムは再び東ローマ帝国の支配下に復した一方、タウルヌムはマレヴィラ (Malevilla) と改称され、フランク王国の一部となった[35]。およそ878年頃、第一次ブルガリア帝国の支配下の時代、この街の最古のスラヴ語の呼称「ベリグラード」 (Beligrad) が記録されている。その後4世紀にわたり、街は東ローマ帝国、ハンガリー王国、第一次ブルガリア帝国の争奪の場となった[36]。ベオグラードは第1回十字軍第2回十字軍を受け入れたが[37]第3次十字軍がベオグラードを通るとき、フリードリヒ1世と彼の率いる19万人の兵士らは、ベオグラードが廃墟となっているのを目撃した[38]

ベオグラードは1284年、スレム王国の首都となり、ステファン・ドラグティンはベオグラードを統治した初のセルビア人の王となった。ドラグティンは義父のハンガリー王イシュトヴァーン5世からスレム地域を与えられた[39]1371年マリツァ川の戦い1389年コソボの戦いを経て、セルビア帝国は崩壊し、オスマン帝国がその南部を支配下に置いた[40][41][42]。他方で、セルビアの北部ではベオグラードを首都としたセルビア専制公国(英語版)が続いた。ベオグラードは専制公ステファン・ラザレヴィチ(英語版)の下で繁栄した。ステファン・ラザレヴィチはセルビア公ラザル・フレベリャノヴィチの息子であった。ステファン・ラザレヴィチは要塞、塔を備えた城を建造し、そのうち西の壁とデスポト・ステファン塔(英語版)は今日まで残されている。ステファン・ラザレヴィチはまた、街を取り囲む古代の要塞を再建し、専制公国はオスマン帝国の攻勢に対してほぼ70年持ちこたえた。この間、ベオグラードはオスマン帝国の支配から逃れてきたバルカン各地の人々の逃げ込み先となっており、その人口は4万-5万人ほどであったと考えられる[39]

1427年、ステファン・ラザレヴィチのあとを継いだジュラジ・ブランコヴィチ(英語版)は、ベオグラードをハンガリー王国に返還させられ、首都はスメデレヴォに移った。ジュラジの統治時代、オスマン帝国はセルビア専制公国の領地のほとんどを制圧したものの、1440年ベオグラード包囲戦[37]1456年の再度の包囲戦[43]はいずれも失敗している。ベオグラードは、10万人を超える兵士を擁するオスマン帝国の中央ヨーロッパ侵攻を食い止める防衛線の役目を果たしていた[44]フニャディ・ヤーノシュ率いるキリスト教徒の勢力はベオグラードの包囲戦を戦い、オスマン帝国スルタンメフメト2世が率いる軍勢から街を守りぬいた[45]。この戦いは「キリスト教の命運を決するもの」とされ、教皇カリストゥス3世は毎日正午に全教会の鐘を鳴らすよう命じ、防衛戦の勝利を祈った[46][37]
オスマン帝国とオーストリアによる統治16世紀のベオグラード

長くオスマン帝国の攻勢に抵抗を続けていたベオグラードは、1521年8月28日スレイマン1世の25万人の兵士によって制圧された。街はほぼ全てが破壊され、キリスト教徒(セルビア人、ハンガリー人ギリシャ人アルメニア人など)は全てイスタンブールへと強制移送され[37]、その地区はこれに因んで後にベオグラード要塞と呼ばれるようになった[47]。ベオグラードはサンジャク(県)の県都となり、トルコ人、アルメニア人、ギリシャ人、ラグーサの交易商人などが集まるようになった。ベオグラードはこの後150年に及ぶ平和を享受する。ベオグラードはコンスタンティノポリスに次いで、オスマン帝国領ヨーロッパで2番目に大きい都市となり、10万人以上が居住した[44]。オスマン帝国の統治は、ベオグラードにオスマン建築をもたらし、多くのモスクが建造され、街にはオリエンタルの影響が強まった[48]1594年、バナト蜂起とよばれる大規模なセルビア人の反乱がトルコ人によって鎮圧された。さらに、アルバニア出身の大宰相スィナン・パシャ(Sinan Pasha)[49]は、ベオグラードのヴラチャル台地にて聖サヴァ不朽体を公開の場で焼き捨てるよう命じた。後にこの事件を記憶するために聖サワ大聖堂が建造された[50]


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