ベオグラードは1284年、スレム王国の首都となり、ステファン・ドラグティンはベオグラードを統治した初のセルビア人の王となった。ドラグティンは義父のハンガリー王イシュトヴァーン5世からスレム地域を与えられた[39]。1371年のマリツァ川の戦い、1389年のコソボの戦いを経て、セルビア帝国は崩壊し、オスマン帝国がその南部を支配下に置いた[40][41][42]。他方で、セルビアの北部ではベオグラードを首都としたセルビア専制公国(英語版)が続いた。ベオグラードは専制公ステファン・ラザレヴィチ(英語版)の下で繁栄した。ステファン・ラザレヴィチはセルビア公ラザル・フレベリャノヴィチの息子であった。ステファン・ラザレヴィチは要塞、塔を備えた城を建造し、そのうち西の壁とデスポト・ステファン塔(英語版)は今日まで残されている。ステファン・ラザレヴィチはまた、街を取り囲む古代の要塞を再建し、専制公国はオスマン帝国の攻勢に対してほぼ70年持ちこたえた。この間、ベオグラードはオスマン帝国の支配から逃れてきたバルカン各地の人々の逃げ込み先となっており、その人口は4万-5万人ほどであったと考えられる[39]。
1427年、ステファン・ラザレヴィチのあとを継いだジュラジ・ブランコヴィチ(英語版)は、ベオグラードをハンガリー王国に返還させられ、首都はスメデレヴォに移った。ジュラジの統治時代、オスマン帝国はセルビア専制公国の領地のほとんどを制圧したものの、1440年のベオグラード包囲戦[37]、1456年の再度の包囲戦[43]はいずれも失敗している。ベオグラードは、10万人を超える兵士を擁するオスマン帝国の中央ヨーロッパ侵攻を食い止める防衛線の役目を果たしていた[44]。フニャディ・ヤーノシュ率いるキリスト教徒の勢力はベオグラードの包囲戦を戦い、オスマン帝国スルタンのメフメト2世が率いる軍勢から街を守りぬいた[45]。この戦いは「キリスト教の命運を決するもの」とされ、教皇カリストゥス3世は毎日正午に全教会の鐘を鳴らすよう命じ、防衛戦の勝利を祈った[46][37]。
オスマン帝国とオーストリアによる統治16世紀のベオグラード
長くオスマン帝国の攻勢に抵抗を続けていたベオグラードは、1521年8月28日、スレイマン1世の25万人の兵士によって制圧された。街はほぼ全てが破壊され、キリスト教徒(セルビア人、ハンガリー人、ギリシャ人、アルメニア人など)は全てイスタンブールへと強制移送され[37]、その地区はこれに因んで後にベオグラード要塞と呼ばれるようになった[47]。ベオグラードはサンジャク(県)の県都となり、トルコ人、アルメニア人、ギリシャ人、ラグーサの交易商人などが集まるようになった。ベオグラードはこの後150年に及ぶ平和を享受する。ベオグラードはコンスタンティノポリスに次いで、オスマン帝国領ヨーロッパで2番目に大きい都市となり、10万人以上が居住した[44]。オスマン帝国の統治は、ベオグラードにオスマン建築をもたらし、多くのモスクが建造され、街にはオリエンタルの影響が強まった[48]。1594年、バナト蜂起とよばれる大規模なセルビア人の反乱がトルコ人によって鎮圧された。さらに、アルバニア出身の大宰相スィナン・パシャ(Sinan Pasha)[49]は、ベオグラードのヴラチャル台地にて聖サヴァの不朽体を公開の場で焼き捨てるよう命じた。後にこの事件を記憶するために聖サワ大聖堂が建造された[50]。反乱に対する報復として、街の住民のほとんどがイスタンブールに強制移送された[51]。1717年、オーストリアのプリンツ・オイゲンによるベオグラード包囲戦。墺土戦争の戦闘の1つとして発生した。
ベオグラードは3度にわたってハプスブルク帝国(オーストリア大公国)に占領された(1688年 - 1690年、1717年 - 1739年、1789年 - 1791年)。1度目は大トルコ戦争でバイエルン選帝侯マクシミリアン2世がベオグラードを包囲して奪い(ベオグラード包囲戦)、2度目はプリンツ・オイゲンの主導で墺土戦争の最中に包囲・陥落させ(ベオグラード包囲戦)、3度目は墺土戦争中にオーストリアに落とされた[52]。ベオグラードはその度にオスマン帝国によって再制圧された[48]が、ゼムン以北は引き続きオーストリア領となった。
この間、セルビア人の大規模な人口移動が発生し、退却するオーストリア人とともにセルビア人がハプスブルク領内に流入した。彼らの子孫はヴォイヴォディナやスラヴォニアに居住している[53]。
セルビアの首都ベオグラードの共和国広場に立つミハイロ・オブレノヴィチ3世の像(19世紀中頃)