ベオグラード
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歴史を通じ、ベオグラードは西洋東洋を繋ぐ主要な交易路の上にあった[19]

サヴァ川右岸にあるベオグラード中心部は丘陵地帯であり、またベオグラード域内で標高が最も高い地点はトルラク丘(英語版)で標高303mである。街の南にはアヴァラ山(英語版)(標高511m)、コスマイ山(英語版)(標高628m)がある[20]。サヴァ川およびドナウ川に沿った一帯では地形は平坦であり、沖積平野ローム台地を形成している[21]
気候

ベオグラードは温暖な大陸性気候である。年間平均気温は摂氏11.7度であり、最も暑い7月の平均気温は23度に達する。平均的に、年間31日は気温が30度を越え、95日は25度を越える。ベオグラードの年間降水量は700mmである。平均的な年間の日照時間は2096時間である。最も晴れる月は7月と8月であり、10月は平均的である。12月と1月は日照が最も少なく、平均すると一日あたりの日照時間は2-2,3時間程度である[22]。ベオグラードにおける公式な記録史上最も高い気温は43.1度であり[23]、最も低い気温は1893年1月10日の-26.2度である[24]

ベオグラード (1981?2010)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)20.7
(69.3)23.9
(75)28.8
(83.8)32.2
(90)34.9
(94.8)37.4
(99.3)43.6
(110.5)40.0
(104)37.5
(99.5)30.7
(87.3)28.4
(83.1)22.6
(72.7)43.6
(110.5)
平均最高気温 °C (°F)4.6
(40.3)7.0
(44.6)12.4
(54.3)18.0
(64.4)23.5
(74.3)26.2
(79.2)28.6
(83.5)28.7
(83.7)23.9
(75)18.4
(65.1)11.2
(52.2)5.8
(42.4)17.4
(63.3)
日平均気温 °C (°F)1.4
(34.5)3.1
(37.6)7.6
(45.7)12.9
(55.2)18.1
(64.6)21.0
(69.8)23.0
(73.4)22.7
(72.9)18.0
(64.4)12.9
(55.2)7.1
(44.8)2.7
(36.9)12.5
(54.5)
平均最低気温 °C (°F)?1.1
(30)?0.1
(31.8)3.7
(38.7)8.3
(46.9)13.0
(55.4)15.8
(60.4)17.5
(63.5)17.6
(63.7)13.5
(56.3)9.0
(48.2)4.2
(39.6)0.2
(32.4)8.5
(47.3)
最低気温記録 °C (°F)?26.2
(?15.2)?15.4
(4.3)?12.4
(9.7)?3.4
(25.9)2.5
(36.5)6.5
(43.7)9.4
(48.9)6.7
(44.1)4.7
(40.5)?4.5
(23.9)?7.8
(18)?13.4
(7.9)?18.2
(?0.8)
降水量 mm (inch)46.9
(1.846)40.0
(1.575)49.3
(1.941)56.1
(2.209)58.0
(2.283)101.2
(3.984)63.0
(2.48)58.3
(2.295)55.3
(2.177)50.2
(1.976)55.1
(2.169)57.4
(2.26)690.9
(27.201)
平均降水日数 (?0.1 mm)13121113131310910101214139
湿度78716361616361616771757968
平均月間日照時間72.2101.7153.2188.1242.2260.9290.8274.0204.3163.197.064.52,111.9
出典:Republic Hydrometeorological Service of Serbia[25]

歴史
古代ベオグラード(シンギドゥヌム)出身のローマ皇帝ヨウィアヌス

新石器時代のスタルチェヴォ文化(英語版)、ヴィンチャ文化(英語版)はベオグラード付近で発達し、7000年ほど前にバルカン半島一帯および中央ヨーロッパアナトリア半島の一部を支配した[26][27]。有史以前に見られる古ヨーロッパ文字(ヴィンチャ文字)は最古のアルファベットであるとする見方もある[28]。数世紀の後、古代ギリシャアルゴナウタイは、カウリアク (Cauliac) と呼ばれた古代のベオグラードに黒海からドナウ川を遡って到達し、サヴァ川を発見している[9]。紀元前4世紀にはケルト人部族のスコルディスキが居住し、町はシンギドゥン (Singid?n) と呼ばれた。町は紀元後1世紀ローマ化され、シンギドゥヌム(英語版)と呼ばれた。2世紀中期、町はローマ帝国のムニキピウムとされ、2世紀の末にはローマ帝国の都市制度の中で最も上位にある植民市(コロニア)に昇格した[11]

初のキリスト教徒のローマ皇帝は、今日のセルビアのニシュ280年に生まれたコンスタンティヌス1世であった[29][30]。ベオグラード出身でローマ皇帝となったヨウィアヌス(332年生まれ)は、キリスト教を再導入した[31]。ヨウィアヌスはローマ帝国国教としてキリスト教を再導入し、前任者ユリアヌスによる異教の復興に終止符を打った。395年、この地域は東ローマ帝国へと引き継がれた[27][32]

シンギドゥヌムからサヴァ川を挟んで対岸にはケルト人の町タウルヌム(Taurunum、今日のゼムン)があり、ローマ時代、東ローマ時代を通じてシンギドゥヌムとタウルヌムの両都市は命運を共にした[33]。両都市は橋で結ばれていた。
中世rightベオグラード要塞ナーンドルフェヘールヴァール(ベオグラード)包囲(1456年)

シンギドゥヌムは630年頃にスラヴ人が移住するまでの間、フン族サルマタイゲピド族東ゴート族アヴァールなどによる侵入を度々受け、また破壊された。500年代初期、アヴァールの侵入を受けるまでの間、ゲピド王国の中心地として機能した。9世紀初頭、アヴァールが最終的にフランク王国によって崩壊すると[34]、シンギドゥヌムは再び東ローマ帝国の支配下に復した一方、タウルヌムはマレヴィラ (Malevilla) と改称され、フランク王国の一部となった[35]。およそ878年頃、第一次ブルガリア帝国の支配下の時代、この街の最古のスラヴ語の呼称「ベリグラード」 (Beligrad) が記録されている。その後4世紀にわたり、街は東ローマ帝国、ハンガリー王国、第一次ブルガリア帝国の争奪の場となった[36]。ベオグラードは第1回十字軍第2回十字軍を受け入れたが[37]第3次十字軍がベオグラードを通るとき、フリードリヒ1世と彼の率いる19万人の兵士らは、ベオグラードが廃墟となっているのを目撃した[38]

ベオグラードは1284年、スレム王国の首都となり、ステファン・ドラグティンはベオグラードを統治した初のセルビア人の王となった。ドラグティンは義父のハンガリー王イシュトヴァーン5世からスレム地域を与えられた[39]1371年マリツァ川の戦い1389年コソボの戦いを経て、セルビア帝国は崩壊し、オスマン帝国がその南部を支配下に置いた[40][41][42]


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