ベイブ・ルース
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もともと酒場で年中働き詰めだった父とは顔を合わせることも少なく、7歳のときからセント・メアリーで実の父よりも長い期間をマティアスと共に過ごしたルースにとっては、マティアスこそが「育ての父」であった。
プロ入り

1913年、野球部のエースとして君臨していたルースの活躍は、偶然試合を見に来ていたジョー・エンジェルの目に留まる。ワシントン・セネターズの投手であったエンジェルは、すぐさまボルチモア・オリオールズ(英語版)[注 9]のオーナー兼監督のジャック・ダン(英語版)にルースを紹介した。その場でルースの練習風景を30分ほど見たダンは、即座に年給600ドル(現在の金銭価値に換算すると約6万6000ドル)の契約を結ぶ。これは1914年2月14日、ルースが19歳のときのことであった。ルースはこのときのことについて、「もともと仕立て屋として就職する予定であり、手先が大事な仕事だから、(手を痛めることが大いにあり得る)野球はもう辞めようと決意していただけに、感無量のうれしさがあった」と語っている。

外部から隔離された全寮制の矯正学校での生活が長かったためか、世間知らずで子供じみたところのあったルースは、早速チームメイトたちから「ジャック(・ダン)の新しいベーブ(赤ちゃん)」と揶揄されるようになる。このときの「ベーブ」というあだ名は、生涯残ることになり、以後は周りから「ベーブ・ルース」と呼ばれるようになった。なお、オリオールズ時代以降のチームメイトは「ベーブ」と呼ぶことを意図的に避け、「ジョージ」「ジッヂ」「バム」などと呼んでいたりした。

1914年7月7日、ダンはルースを他の2名の選手とセットにして、金銭トレードに出す計画を立てていた。相手チームはフィラデルフィア・アスレチックスであった。しかし、ダンが要求していた1万ドル(現在の金銭価値に換算すると22万ドル)という額により、交渉は決裂。オリオールズが業務提携を結んでいたシンシナティ・レッズとも決裂した。
レッドソックス時代ボストン・レッドソックス時代(1919年)

1914年7月9日にはボストン・レッドソックスのオーナーのジョー・ランニン(英語版)と交渉を成立させる。契約金の額については諸説あり、不明である。

メジャーリーグデビューとなった1914年、ルースは5試合に出場し、そのうちの4試合は投手としてマウンドに登った。デビュー戦となった7月11日には、初登板初勝利を挙げる。しかし、当時のレッドソックスはスター選手を多く抱えていたため、登板機会がさほど与えられないままマイナーへ降格された。ルースが「登板できないなら打撃で貢献しよう」とバッティング練習をすれば、自身のバットを折られるなどの嫌がらせにも遭ったというが、ルースはどこからか古いバットを見つけてきてバッティング練習を続けたという[2]。また、ルースに代打が送られることもあるなど、後に本塁打王と呼ばれる選手には相応しくない処遇であった。ルースの降格先のインターナショナルリーグ所属チームプロビデンス・グレイズは、後の200勝投手カール・メイズも所属しており、見事にリーグ優勝を果たす。シーズン後の1914年10月17日に、ルースはボストンで知り合ったウェイトレスのヘレン・ウッドフォードと結婚した。

1915年、シーズン前の春季キャンプにて、レッドソックスの先発ローテーション入りを果たす。同年、ルースは18勝8敗の好成績を記録し、レッドソックスはアメリカンリーグのペナント(英語版)を制した。また、バッティングでもチームに貢献しており、打率.315に加えて本塁打を4本打っている。レッドソックスは4勝1敗でワールドシリーズを制したが、ルースに登板の機会はなく、唯一の打席でも内野ゴロに終わっている。

1916年、若干春季キャンプで苦しむものの、23勝12敗、防御率1.75、9完封を記録する。防御率と完封数はリーグ1位であり、完封数は1978年にロン・ギドリーが並ぶまでの間、左投手としてはリーグ記録であった。同年6月27日のフィラデルフィア・アスレチックス戦では自己最多の10奪三振を奪ったり、大投手ウォルター・ジョンソンに投げ勝ったりするなど、ルースは投手としての実績を着々と積んでいった。一方でチームの攻撃力は、主力のトリス・スピーカークリーブランド・インディアンスへ移籍したことでだいぶ弱まっていた。それでもレッドソックスは投手陣の踏ん張りで再度ワールドシリーズに進出。ブルックリン・ロビンスに対し、ルースは14イニング1失点の成績で、チームは4勝1敗の成績でワールドシリーズ2連覇を果たした。

1917年もルースは大活躍を見せ、24勝13敗、防御率2.01、6完封に打率.325の成績を残す。しかし、チームは100勝を挙げたシカゴ・ホワイトソックスの快進撃に及ばず、9ゲーム差の2位に終わった。6月23日のワシントン・セネターズ戦でルースは、先頭打者に四球を与えた後、怒りに狂い、審判を殴ってしまう。これによりルースには10試合の出場停止処分が下された[注 10]。その後の7月11日の試合は、デトロイト・タイガースに対し、1-0の1安打完封勝利を挙げる。ルースは後年、この試合を「現役生活で一番興奮した試合」であったと振り返っている。

1918年は20試合を投げ、13勝7敗、防御率2.22を記録する。また、11本塁打を放って生涯初となる本塁打王のタイトルを獲得した。これは長らくメジャー唯一となる「同一年度での10勝かつ10本塁打」でもあった[注 11]が、2022年8月9日に大谷翔平が10勝かつ25本塁打を達成したことにより並ばれた[3]。この年以降、ルースは主に外野手として起用された。同年は7月に監督と口論になり、一時期チームの帯同から外れていたため、若干成績に落ち込みが見られるシーズンであった。チームはワールドシリーズに出場し、ルースは第1戦と第4戦の先発投手を任された。両試合ともに勝ち星を挙げ、17回を投げて自責点2、防御率は1.06を記録する。ワールドシリーズでの連続無失点イニング数は29.2回を記録し、これはホワイティー・フォードが1961年に破るまでMLB記録であった。なお、この年の右翼席へ打ち返した打球が当時のルールでサヨナラ三塁打と認定されたが、現行ルールではルースは通算715本の本塁打を放っていることになる。
打者としての台頭

1915年から1917年にかけてルースが投手以外で起用されたのは、たったの44試合であった。1917年のシーズン終了後、チームメイトであったハリー・フーパーは、「ルースは野手として毎日試合に出場した方が価値は上がる」との提言をしている。

ルースが外野を守る回数が増え、登板する機会が減っていったのは1918年からである。かつてのチームメートであるトリス・スピーカーは、「投手でありながら登板のない日に野手として試合に出るのは馬鹿げたことだ」と話し、この転向がルースの選手生命を縮めるかもしれないと見ていたが、ルース自身は打撃の方に関心が移っていき、本格的に野手に転向することになる。この年、ルースは打率.300、11本塁打という記録を、レギュラー野手としては圧倒的に少ない317打数で達成している。

1919年には、130試合に出場するも、わずか17試合しか登板しなかった。同年に放った29本塁打は当時のMLB記録である。当時、本塁打はシーズンで2桁打てば相当なスラッガーであり、最初期の「飛球をワンバウンドで取ってもアウト」というルールの影響から、本塁打自体の評価も低かった。そのため、ルースの29という本数は当時としては驚異的であり、本数を重ねるうちに過去のMLBの本塁打数記録が調べ直され、それまでの最多本塁打記録が1884年のネッド・ウィリアムソン(英語版)の27本(右翼が約60mなど本拠地が異常に狭かった球場での記録)に修正されるなど、文字通り歴史を塗り替える画期的な出来事であった。ルースの登場により、飛ばないボールのデッドボール時代が終わり、本塁打が量産されるライブボール時代が始まった[4]タイ・カッブ(右)と(1920年)

ルースの猛打の噂は瞬く間に広がって、プレイを一目見たさに大観衆が詰めかけた。第一次世界大戦終戦による解放感、さらには未曾有の好景気から、大衆は華やかで、派手で、爽快なパフォーマンスを求めており、ルースの特大本塁打はその望みにぴったりだった。ルースの名声が高まるとともに、その胴回りも広がっていき、オリオールズ時代のチームメイトは、ルースの胃袋の大きさに驚いたという。1919年には、ルースの肉体は1916年当時の背の高いアスリートらしい姿から、丸々と太った体型へと変化していた。こうした酒樽のような上半身に対し、筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えたが、シーズン2桁盗塁を5回記録するなど、走者としても野手としても問題はなかった。ルースのライバルといえる大打者のタイ・カッブも、後年にルースを「太っている割には走るのが速かった」と述べている。

また、カッブは、もしルースが最初から野手として起用されていたらもっと本塁打数は伸びていたのではないか、という意見に対し、「ルースは投手だったからあの大振りが許されたんだ。


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