ヘンリー8世_(イングランド王)
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兄弟姉妹には兄アーサープリンス・オブ・ウェールズ)、姉マーガレットスコットランドジェームズ4世、アンガス伯アーチボルド・ダグラス(英語版)、メスヴェン卿ヘンリー・ステュアート(英語版)に嫁ぐ)、妹メアリーフランスルイ12世、初代サフォーク公チャールズ・ブランドンに嫁ぐ)がいる。

1493年にまだ幼少期にあったヘンリーはドーヴァー城の城主、五港長官(英語版)に任命された。翌1494年にはヨーク公を授爵し、さらにイングランド紋章院総裁およびアイルランド総督を拝命した。ヘンリーは一流の教育を受け、ラテン語およびフランス語は堪能で、イタリア語も多少は話した。王位に上がる予定ではなかったため、幼少期の詳細は知られていない。

1501年カスティーリャ女王イサベル1世アラゴンフェルナンド2世の末子キャサリン・オブ・アラゴンと結婚していた兄アーサーが婚儀の20週後に急死し、ヘンリーはコーンウォール公および王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)となった。兄の妻と結婚することは教会法上禁止されていたが、イングランドとスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合)の関係を保つため、ローマ教皇からの許可を得た後で、ヘンリーはキャサリンと婚約させられた。兄の薨御の時点でヘンリーはまだ10歳であり、結婚は先送りされた。その後、キャサリンの母イサベル1世が没し、スペインでの王位継承問題も絡んで事態は複雑化したが、キャサリンはスペインの大使としてイングランドにとどまった。ヘンリーは14歳になり結婚できる年齢となったが、結婚に抵抗した。
初期の統治

父王ヘンリー7世の崩御によって1509年にヘンリー8世として即位、2ヶ月後にキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚式を挙げた。当初は政治には関心を示さず、父の時代からの重臣であったウィンチェスター司教(英語版)リチャード・フォックス(英語版)を重用していた。

1510年に、同様に父に仕えた重臣リチャード・エンプソン(英語版)とエドマンド・ダドリー(英語版)を逮捕した。2人は反逆罪で処刑され、障害となる人物をこのように処理するのがその後のヘンリーの習慣となった。1511年ごろからヘンリーの全幅の信頼を受けたのが、トマス・ウルジーであった。ウルジーはヘンリーの幼少期の監督係も務めていたが、教会内ではヨーク大司教を経て枢機卿に登り、大法官の職について権勢をふるった。

1521年5月、バッキンガム公エドワード・スタッフォードを反逆罪で処刑した。ヘンリー8世はマルティン・ルター宗教改革を批判する『七秘蹟の擁護』を著した功で、同年10月に教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(ラテン語: Fidei defensor)の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であった。ちなみに「信仰の擁護者」の称号はイングランド国教会の成立後もヘンリー8世とその後継者に代々用いられ、現在のイギリス国王チャールズ3世の称号の一つにもなっている。

キャサリンは死産の後、王子を生んだが夭折し、流産の後、1516年にようやくメアリー王女(後のメアリー1世)を出産した。王女の誕生により、ヘンリーとキャサリンの関係は多少持ち直したが、良好とはいえなかった。ヘンリーは多くの愛人を持ち、エリザベス・ブラントによって庶出の息子ヘンリー・フィッツロイをもうけた。ヘンリー・フィッツロイはヘンリーに認知された唯一の庶子であり、初代リッチモンド公およびサマセット公となり、後に結婚したが子をなさないまま死んだ。そのほかにもヘンリーは私生児をもうけたと噂されるが、認知されなかったために確証はない。
フランスおよびハプスブルク家との関係1520年の金襴の陣におけるフランソワ1世とヘンリードーバーで乗船するヘンリー、1520年

ヘンリー8世が即位した時、フランスハプスブルク家と組んだカンブレー同盟戦争で、ヴェネツィア共和国に対し優勢であった。ヘンリーはフランスのルイ12世と友好関係を結ぶ一方で、舅のアラゴン王フェルナンド2世と対フランス条約を結んだ。1511年に教皇ユリウス2世が神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世らと神聖同盟を結成するとヘンリーはこれに加わり、カンブレー同盟戦争ではスペインと連合してフランスのアキテーヌを攻めたが失敗に終わった。

1513年にはヘンリー自ら軍を率いてフランスに攻め入ったが、フランスと同盟を結んでいた義兄のスコットランド王ジェームズ4世がイングランドに攻め込んだ。だが王妃キャサリンの指導するイングランド軍にフロドゥンの戦い(英語版)で敗れ、ジェームズ4世は戦死した。教皇はフランスに融和的なレオ10世に代わり、イングランドの財政は窮乏していたため、ヘンリーはルイ12世と講和を結び、妹のメアリーとの結婚を整えた。メアリーが嫁いで数か月後にルイ12世は亡くなり、メアリーはヘンリーの親友で寵臣のチャールズ・ブランドンと再婚した。ヘンリー8世(左)とカール5世(右)と教皇レオ10世(中央)、1520年

神聖ローマ帝国君主とスペイン(カスティーリャ=アラゴン)君主の2人の祖父の崩御によって、義理の甥にあたるカール5世が両国の玉座に登り、ルイ12世の崩御によってフランソワ1世がフランス王位に登った。トマス・ウルジーはオスマン帝国の脅威に対して西ヨーロッパの諸国を団結させようと慎重に外交を進めた。フランスとイングランドの同盟が成立してロンドン条約(英語版)が結ばれ、1520年にヘンリーとフランソワは大陸にあるイングランド領のカレー近郊で会見し、豪華な饗宴、音楽会、騎馬試合が催された(金襴の陣)。だがイングランドとフランスの平和は長続きせず、翌1521年の第三次イタリア戦争でカール5世がフランスと戦った時には、ヘンリーは当初仲介しようとしたが、後にはカール5世を助けて参戦し、北フランスを攻めて領土回復を図った。だが得るものは少なく、1525年にフランスと再び講和を結んで戦争から離脱した。
離婚問題とカトリック教会からの破門

ヘンリーは王妃キャサリンの侍女メアリー・ブーリンと関係を持っていた。メアリー・ブーリンの2人の子はヘンリーの子である可能性があるが、ヘンリー・フィッツロイのように認知はされなかった。始まってまだ日の浅いテューダー朝には正統性に対する疑義があり、王位継承権を主張するかもしれないライバルの貴族が多数存在したため、ヘンリーは強力な男の世継ぎを欲した。また、当時のイングランドでは庶子の権利が大幅に制限され、たとえ認知されたとしても王位につくことは難しかった。このような理由から、ヘンリーは6度の結婚を繰り返すこととなった。世継ぎとなる嫡出の王子が生まれないために、ヘンリーは王妃キャサリンに愛想をつかし、その侍女でメアリー・ブーリンの姉妹のアン・ブーリンを求めるようになった。だがアンはメアリーと違って愛人となることを拒否し、正式な結婚を求めた。

ヘンリーには3つの選択肢があった。1つ目は認知していた庶子ヘンリー・フィッツロイを嫡出子とすることであったが、教皇の承認を必要とし、相続の正統性への疑義を招く可能性があった。2つ目はメアリー王女を結婚させて男子を得ることであったが、メアリーは小柄で成長が遅れ、ヘンリーが生きている間に子をもうけることは難しいように見えた。


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