ヘンリー7世_(イングランド王)
[Wikipedia|▼Menu]
テューダー朝を創立して24年間王位に座り、平和裏に息子ヘンリー8世に王位を継承した。君主の権力を回復し、政治を安定させ、優れた統治、積極的な外交政策と経済運営を行った。一方で、富裕層に対しては不当な手続きによって財産罰を濫発した。

テューダー朝断絶後にイングランド王位を継承したステュアート朝ジェームズ1世は、ヘンリー7世の長女マーガレットの曾孫であり、そのためヘンリー7世は現在のイギリス王家の祖先にもあたる。
生涯
家系および幼少期若きヘンリー

ヘンリー・テューダー、後のヘンリー7世はウェールズペンブルック(ペンブローク)城で1457年1月28日に生まれた。母はランカスター家傍系ボーフォート家の当時13歳のマーガレット・ボーフォート。父はリッチモンド伯エドマンド・テューダーであったが、誕生の3カ月前に死去していた[2]

ヘンリーの祖父オウエン・テューダーは古のウェールズ君主の血をひくが、イングランド王ヘンリー5世の未亡人でフランス王女であるキャサリン・オブ・ヴァロワの納戸係秘書を務める下級貴族に過ぎなかった。しかしオウエンはキャサリンと結婚し、その間に生まれたエドマンド(ヘンリー7世の父)はヘンリー6世の異父弟となり、フランス王家の縁者ともなって、リッチモンド伯に封じられた。ヘンリーの銀貨

彼の王位継承権は主に母方のボーフォート家に由来する。母マーガレット・ボーフォートはエドワード3世の三男のジョン・オブ・ゴーントの子であるジョン・ボーフォートの孫であった。だが、ジョン・ボーフォートは両親が結婚する前に生まれた私生児であり、後に従兄に当たるリチャード2世に嫡出子として認められた時、王位継承権を放棄させられていた。さらに女系の血筋であることもあって、ヘンリーの王位継承権には疑問符が付いていた。

しかし1483年までには、ヘンリー6世と息子の王太子エドワード・オブ・ウェストミンスター、さらに他のボーフォート家の成員が死に絶え、ヘンリーがランカスター家一門の最年長の一員となっていた。

ヘンリーはテューダー家がウェールズ君主の末裔であることを活用して、ウェールズからの援軍および軍の通行権を確保した[3][4]。ヘンリーは、いつかウェールズを抑圧から解放するとされる“予言の子”の候補であると見なされており、ウェールズ君主の赤いドラゴンの旗を聖ゲオルギウス十字の旗と共に掲げていた。

1456年、父エドマンドは戦場でヨーク家側に捕えられ、ヘンリーの誕生3か月前に死んだ。幼年時代は叔父ジャスパー・テューダーの保護を受け、ウェールズで暮らした。1461年にヨーク家のエドワード4世が王位に着くとジャスパーは追放され、ヨーク派のペンブルック伯ウィリアム・ハーバートがヘンリーと母を保護した。だが1469年にペンブルック伯は処刑され、1470年にランカスター家のヘンリー6世が復位し、ジャスパーは追放から戻ってヘンリーを宮廷に連れて行った。

1471年にヘンリー6世と王太子エドワードが殺されてエドワード4世が復位すると、ヘンリーはランカスター家の血を引く最後の男子となり、ヨーク派から命を狙われるようになった。そのため、叔父ジャスパーに連れられてフランスに渡り、ブルターニュに匿われて続く14年間をこの地で過ごした。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef