ヘンリー5世_(イングランド王)
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ホットスパーの遺児ヘンリー・パーシーノーサンバランド伯を継承した。

ヘンリー5世にとって最大の内政課題は、当時異端として迫害されていたロラード派の不満分子に対する対処であった。1414年1月にジョン・オールドカースルの反乱を未然に防いだヘンリー5世は内政基盤を堅固なものとした。1415年6月にサウサンプトンの陰謀事件(英語版)[注 3]を除いてはこれ以降の彼の統治期に大きな内政問題は発生していない。

また、政府公式文書での英語の使用を促進した。彼は350年前のノルマン・コンクエスト以来初めて、個人書簡に英語を使用した王であった[注 4][4]
外交とフランス遠征
フランスへの要求

内政問題が鎮静化したことで、ようやくヘンリー5世は外交問題に注力できるようになった[注 5]。最初にブルゴーニュ派、次にアルマニャック派から接触があり、それぞれ相手を倒すためイングランドの加勢を必要とし、ヘンリー5世に向けて婚姻関係と領地割譲を提案した。ヘンリー5世はアルマニャック派と交渉しつつ密かに政権から追われたブルゴーニュ派の首領であるブルゴーニュジャン1世(無怖公)にも近付き、ブルゴーニュ派から明確な回答は得られなかったが、アルマニャック派との交渉も平行線を辿った。

ヘンリー5世は

フランス政府が反乱を起こしたオワイン・グリンドゥールに援助していたことへの賠償

ブルゴーニュ派・アルマニャック派それぞれに支援を与えていたことへの代償

という理由で、領土割譲とフランス王位を要求した。これを拒否したアルマニャック派に対し、ヘンリー5世は長期休戦状態にあった百年戦争を再開し、フランス遠征を行った[5]
1415年の遠征

1415年8月11日にフランスに向けて出航したヘンリー5世のイングランド軍は、8月12日に北フランスに上陸し、アルフルール(英語版)(現セーヌ=マリティーム県)要塞を包囲し、9月22日にはこれを陥落した(アルフルール包囲戦(英語版))。予想以上に長引いた包囲戦で疾病・負傷者が増えたイングランド軍は、補給可能なカレー港に陸路移動を開始した。これを追撃しようとするアルマニャック派を中心とするフランス軍を10月25日のアジャンクールの戦いで撃破し、多くのフランス貴族を捕虜とした。ブルゴーニュ派からの攻撃はなくイングランド軍は11月に帰国、ロンドンで凱旋した。

アジャンクールの戦いでアルマニャック派の幹部は戦死するか捕虜となり、彼らは過酷に扱われ長期間イングランドに幽閉された。この中にオルレアン公シャルルアルテュール・ド・リッシュモンなどがおり、ヘンリー5世が死ぬか、長い年月を経た末でなければ釈放されなかった。また、ヘンリー5世は継母(父の後妻)でリッシュモンの実母ジョーン・オブ・ナヴァールに対しても邪険に扱ったとされる[6][注 6]
外交と制海権

イギリス海峡の制海権を確固たるものにするためには、フランスだけでなく、フランスと同盟するヨーロッパ各国を海峡から締め出す必要があった。

アジャンクールの戦いの後、神聖ローマ皇帝ジギスムントはイングランドとフランスの和平調停のためヘンリー5世のもとを訪れた。ヘンリー5世のフランスに対する要求を緩和するように説得するためである。ヘンリー5世は皇帝を歓待し、ガーター勲章まで授与した。ジギスムントは返礼としてヘンリー5世をドラゴン騎士団に登録した。数ヶ月後の1416年8月15日、イングランドのフランスへの賠償請求権を認めたジギスムントはカンタベリー条約(英語版)を締結してイングランドを去った[7]
1417年の遠征

イングランド国王と神聖ローマ皇帝との間につながりができたことで、1417年教会大分裂の収束に道筋がつき、フランスと大陸諸勢力との分離が進んだ。これを好機として、アジャンクールの戦いの疲弊を癒したヘンリー5世は再び、さらに大規模な進攻作戦を開始した。

8月に始まったイングランドの征服活動でカーンなどノルマンディー地方の沿海部はまたたくまに占領され、ルーアンの町も1418年7月からパリから分断された状態で攻め立てられた。フランス政府はブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争で機能していなかった。ヘンリー5世は巧みに両派を争わせつつ、9月にシェルブールを、1419年1月にルーアンを陥落させた。

抵抗したノルマンディーのフランス人は厳しく罰せられた。城壁からイングランド人捕虜の首をぶら下げたアラン・ブランシャールは瞬く間に処刑され、イングランド国王を破門したルーアンの司祭ロバート・ドゥ・リベットはイングランドに送られて5年間牢獄に入れられた。

8月、イングランド軍はパリ城外まで達した。ここに至って王太子シャルル(後のシャルル7世)とブルゴーニュ公ジャン無怖公はイングランドに対して共闘すべく和解の交渉を開始したが、9月10日の交渉の場で王太子の支持者が無怖公を暗殺した。そこで新ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)とブルゴーニュ派はヘンリー5世のイングランド軍と協同することにし、フランス王室も交えた6ヶ月の交渉の末1420年5月にトロワ条約が結ばれた。この条約の中で、ヘンリー5世がフランスの王位継承者・摂政となることが認められた。

そして6月2日、ヘンリー5世はシャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)と結婚した。6月から7月にかけてモントロー(フランス語版)[注 7]の城に押し寄せ、陥落させた。さらに11月にはムランを占領し、ルーアンに滞在した後1421年2月にイングランドへ帰国した[8]
1421年の遠征と崩御

イングランド滞在から4ヶ月後の6月10日、ヘンリー5世は自身最後の遠征のためフランスに向けて出航した。これは南フランスに抵抗の拠点を移した王太子とアルマニャック派の勢力があなどれないからで、フランス駐在のイングランド軍の指揮官だった弟のクラレンス公が3月22日ボージェの戦いで討ち取られていたため報復の意味もあった。7月から8月にかけてヘンリー5世の軍はドルーを制圧し、シャルトルで同盟軍を支援した。その年の10月にはモーを包囲し、7ヶ月もの長期間包囲した末の翌1422年5月2日に攻略した(モー包囲戦)。

ところが同年8月31日、ヘンリー5世はパリ郊外のヴァンセンヌの森で、モー包囲戦の際に感染していた赤痢にて崩御した。34歳であった。わずか数か月前に、息子ヘンリー6世の名前で弟のベッドフォード公ジョンをフランスの摂政に任命したばかりであった。ヘンリー5世としてはトロワ条約の締結の時、病弱な義父シャルル6世よりは長生きする自信があったため「次のフランス王」と取り決めたが、結局ほんの2ヶ月ではあるがシャルル6世の方が長生きすることになった。

キャサリンはヘンリー5世の亡骸をロンドンに運び、11月7日ウェストミンスター寺院に埋葬した。ヘンリー5世の崩御後、キャサリンは1437年に死ぬまでウェールズ人の侍従オウエン・テューダーと密接な生活を送ったが(密かに結婚したかも知れない)、彼らの孫こそが後にテューダー朝を開いたヘンリー7世である[9]
シェイクスピア史劇

シェイクスピアの史劇『ヘンリー五世』の主人公として取り上げられ、『ヘンリー四世 第1部』『ヘンリー四世 第2部』でもハル王子の名前で重要な役回りで登場する。


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