ヘンリー2世_(イングランド王)
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この遠征は失敗に終わり、傭兵たちへ給金が支払えないアンリはノルマンディーへ戻ることができなくなった[18]。これは、この遠征がマティルダやグロスター伯の許可を得ず独断で行われたことを示している[19]。ところがアンリは敵であるスティーブンに助けを求め、彼の援助で未払いの賃金を払って帰国した[注釈 1]1149年以降もアンリは何度かイングランドに渡ってスティーブン側と戦った[21]。いずれの戦闘も短期間で、戦況にはさほど影響は与えなかったが、母方の大叔父に当たるスコットランドデイヴィッド1世から騎士に叙されたことはスティーブン派の動揺を誘い、マティルダ派に希望を与えた[22][23]
即位、遺産継承、結婚アリエノール・ダキテーヌを描いたステンドグラス

1150年、既に父が征服していたノルマンディー公位を受け継いだが、同年8月にフランス王ルイ7世(若年王)はスティーブンに味方してノルマンディーへ進軍、この時はルイ7世の側近シュジェールの仲介で戦闘は起こらなかったが、翌1151年1月にシュジェールが死去するとノルマンディーの政情は不安定に戻った。加えて、父がポワティエ代官ジロー・ベルレと紛争を起こし捕らえたことでルイ7世との対立が悪化、スティーブンの息子のブローニュ伯ウスタシュ4世(ユースタス)もルイ7世からの援助獲得を画策して一層複雑な情勢となっていった。この状況を打破するため、クレルヴォーのベルナルドゥスが仲介を申し出た[24][25][26]

1151年8月に父と共にルイ7世のパリシテ島)のシテ宮殿に姿を現し、ベルレの件で破門された父がベルナルドゥスから提案されたベルレの釈放を引き換えにした破門解除の和睦を蹴ったため交渉は決裂したが、父がベルレを釈放したため一件落着となりルイ7世に臣従、ノルマンディー公位を確定させた。さらに同年9月、父の死によりアンジュー伯領を受け継いだ。翌1152年5月18日にはルイ7世の王妃であった11歳年上のアリエノール・ダキテーヌ(エリナー・オブ・アクイテイン)とポワティエで結婚し、彼女の相続地アキテーヌ公領の共同統治者となった[注釈 2][30][31][32][33][34]

アリエノールの先夫であるルイ7世はフランスの西半分がアンリの手に入ったことに危機感を抱き、自分の許可なく結婚したアンリが宮廷出頭命令を無視したことを口実に7月にノルマンディーへ侵入、アンリの弟ジョフロワも領地相続の不満から加勢したが(父の遺言を無視した兄にアンジューの相続権を奪われた)、アリエノールの夫となったアンリは7月半ばから8月末までにこれを防ぎ、シノン・ルーダン(英語版)・ミルボー(英語版)を奪取して弟を降伏させた。ルイ7世も当初の勢いを失い休戦、背後の安全を確保したアンリは1153年1月にアリエノールを残してイングランドへ渡った[35][36][37][38][39]

1月6日に到着したイングランドでは劣勢に傾いたスティーブンから和平を打診され、スティーブンの弟のウィンチェスター司教(英語版)ヘンリー(英語版)とカンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベック(英語版)が交渉に当たった。和平に反対していたウスタシュ4世が8月17日に急死すると、11月6日にアンリはスティーブンと和平協定(ウォーリングフォード協定、ウィンチェスター協定とも)を結んで、スティーブンの次男でウスタシュ4世の弟のブローニュ伯ギヨーム1世に所領保有など補償を与えた上でスティーブン死後のイングランド王位継承者となる。翌1154年春に一旦ノルマンディーへ帰還し、妻と渡海中に生まれた長男ギヨーム復活祭を祝い、ルーアンで母と対面したりして過ごした。10月25日にスティーブンが亡くなると協定どおりヘンリー2世として即位、妻子を連れて再渡海して12月8日にイングランドに上陸した。そして12月19日ウェストミンスター寺院でアリエノールと共にイングランド王・王妃として戴冠した(アリエノールは妊娠中で不在、1158年にウスター大聖堂(英語版)で戴冠したとも)。ギヨームは1156年に夭折するも夫妻は8人の子を儲けた[34][38][40][41][42][43][44]。なお、この時からイングランド君主の称号は"Rex Angliae"(イングランド国王)となっている。

これにより、イングランド王国にアンジュー家によるプランタジネット朝が創始され、ヘンリー2世が領有する地域は、ピレネー山脈からアキテーヌ、ポワトゥーにかけてのフランス南西部、アンジュー、ノルマンディーなどフランス北西部、さらにイングランドの新領土を加えた広大なものとなった。なお、ヘンリー2世の創始した王朝は、本来では「アンジュー朝」と称されるべきであり、事実15世紀までは「アンジュー」と呼ばれていたが、現在では一般に「プランタジネット朝」が用いられる。これは、ヘンリー2世の父ジョフロワ4世がエニシダ(プランタ・ゲニスタ)の小枝を帽子に刺して戦地に赴いたことに由来する[注釈 3][46][47][48][49]


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