ヘンリー砦の戦い
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マクラーナンドの師団はテネシー川東岸の3マイル (5 km)北で守備隊の逃げ道を塞ぎ、スミスの師団はケンタッキー州側のハイマン砦を占領して、砦の陥落を確実にすることが意図された。しかし、戦闘は主に海軍からのものとなり、歩兵隊が戦闘に入る前に決着が着いた[11]

ティルマンは砦が陥落するのは時間の問題だと認識した。防御のために据えられた大砲のうち9門しか水面上にはなかった。北軍船隊を足止めするために砲兵隊を砦に残し、残りの部隊を連れてその地域から脱出し、陸路を12マイル(19 km)離れたドネルソン砦まで進もうとした。ハイマン砦は2月4日に放棄されており、ヘンリー砦には一握りの砲兵を残して全軍が2月5日に砦を離れた(北軍の騎兵隊が退却する南軍を追跡したが、道路の状態が悪いために本格的な戦闘には至らず、わずかな捕獲をしたに留まった)[12]

フットの7隻の砲艦は2月6日に砦の砲撃を開始した。新しく設計され慌ただしく建造された鋼製被覆艦の西部船隊にとっては初めての戦闘だった。フットは4隻の鋼製被覆艦を横一列に配置し、その後に3隻の木製被覆艦を置いたが、砦に対しては長射程となり効果は薄かった。フットの船隊が重大な破壊を免れたのは、主にヘンリー砦の大砲の位置が低かったことによっていた。南軍の砲撃は艦船の薄い装甲が最強の所のみに当てることができた。しかし、1隻は大きな損傷を受けた。偶然32ポンド砲の1発がUSSエセックスを貫通し、中央部のボイラに当たり、火傷するほど熱い蒸気を艦の半分に送ることになった。その指揮官ウィリアム・D・ポーターを含め32名が戦死または負傷となり、USSエセックスはこの方面作戦の残りは使えなかった[13]
戦闘の後およびティンバークラッド襲撃

戦闘が75分間続いた後、ティルマンは、砦に対して攻撃し400ヤード (360 m)の距離に迫っていた船隊に対して降伏した。船隊からでた1隻の小さなボートが砦の出撃路を直接通って中に入り、USSシンシナティでの降伏儀式のためにティルマンを乗せて運んだが、このことで洪水の程度が分かる。12名の士官と82名の兵士が降伏した。その他の損失は戦死15名と負傷20名だった。脱出した軍隊はその大砲や装備の全てを後に残していった。ティルマンは収監されたが、8月15日には捕虜交換で釈放された[14]

ティルマンはその報告書で、ヘンリー砦は「惨めな軍事的位置にあった。...軍事工作史にもこれほどのものは無い」と苦々しく書いた。グラントはハレックに宛てて簡単な報告書を送った。「ヘンリー砦は我々のものである。...8日にはドネルソン砦を奪取して破壊し、ヘンリー砦に戻る。」ハレックはワシントンに電報を送った。「ヘンリー砦は我々のものである。我が軍旗がテネシー州の大地に再度打ち立てられている。もう取り払われることはない。[15]

皮肉な事実ではあるが、グラントが北軍の他の将軍と同様慎重であり、その出発が2日遅れておれば、戦闘は起こらなかった。というのも2月8日にはヘンリー砦が完全に水に浸かっていたからである。それでも北部の大衆はヘンリー砦を栄光有る勝利として扱った。2月7日、砲艦のシンシナティ、セントルイスおよびエセックスは汽笛を鳴らしてカイロに凱旋したが、南軍の軍旗を上下逆に掲げていた。「シカゴ・トリビューン」は、この戦闘が「世界の戦史の中でも最も完璧で目覚ましい勝利の一つ」だと書いた[16]

ヘンリー砦の陥落でテネシー川はアラバマ州境まで北軍の砲艦と船舶交通が自由となった。このことは直ぐに実証された。降伏から直ぐ後に、フットはフェルプス大尉の3隻の木製被覆艦タイラー、コネストーガ、およびレキシントンを上流に送って、軍事的な価値のある施設や補給所を破壊させた(船隊の鋼製被覆艦は砲撃による損傷を受けていたので、南軍の船舶を追跡することを含む当座の任務には遅すぎて操船ができなかった)。この襲撃は航行可能な限界点アラバマ州フローレンスを過ぎてマッスルショールズまで及んだ。北軍の船舶とその襲撃隊は、多くの補給所と25マイル (40 km)上流のメンフィス・アンド・オハイオ鉄道の重要な橋を破壊した。また、サリーウッド、マッスル、および鋼製被覆艦で建造中だったイーストポートを含み様々な南部の船舶を捕獲した。北軍の船舶は2月12日に無事ヘンリー砦まで戻ってきた。しかし、フェルプス大尉はこれが無ければ成功だった襲撃の間に大きな失敗をしでかしていた。フローレンスの町の市民はフェルプスに、その町やメンフィス・アンド・チャールストン鉄道の鉄道橋を見逃してくれるよう求めた。フェルプスはその橋に軍事的な重要性が無いと判断して同意すると伝えた。しかしその橋を失っておれば、実質的に南軍の戦線を2つに割ることができたはずだった。ジョンストン軍がシャイローの戦いの準備のためにミシシッピ州コリンスに向かう途中で通ったのがこの橋だった[17]

2月16日にドネルソン砦がグラント軍に降った後で、西部南軍の主要輸送路の2つが、北軍の軍隊や物資を動かす幹線になった。グラントが想像していた様に、この動きはコロンバスにいる南軍の側面を脅かすことになり、その後間もなく南軍はコロンバス市とケンタッキー州西部から撤退することになった。
戦場の保存

ヘンリー砦の場所はドネルソン砦と近接してはいるが、ドネルソン砦国定戦場の一部として合衆国国立公園局に管理されてはいない。現在はランド・ビトウィーン・ザ・レイクス国立リクリエーション地域の一部として記念されている。1930年代、テネシ川にダムができたとき、ケンタッキー湖ができてヘンリー砦跡は永遠に水面下に沈んだ。ケンタッキー側の岸から離れた航路標識が元の砦の北西隅の場所を示している。ハイマン砦は2006年10月まで個人に所有されていた。このとき、キャロウェイ郡行政事務所がハイマン砦周辺150エーカー (0.6 km2)の土地をドネルソン砦国定戦場の一部として管理されるために、合衆国国立公園局に移管した。塹壕の一部は今でも見ることができる[18]
脚注^NPS Archived 2005年4月6日, at the Wayback Machine.
^ Nevin, p. 46; Eicher, pp. 111-13; Gott, pp. 37-39; Cooling, p. 4.
^ Esposito, text to map 25; Nevin, p. 54.
^ Cooling, pp. 9-11; Eicher, p. 148; Gott, pp. 45, 46, 68, 69, 75; Esposito, map 25; Simon, p. 104.
^ Estimates of Grant's troop strength vary. Cooling, pp. 11-12: 15,000. Gott, pp. 76-78: 15,000. McPherson, p. 396: 15,000. Woodworth, p. 72: 17,000. Nevin, p. 61: 17,000.
^ Gott, p. 73; Cooling, p. 4.
^ Nevin, pp. 56-57; Gott, pp. 16-18.
^ Gott, pp. 17-18; Cooling, p. 5; Nevin, p. 57.
^ Nevin, pp. 62, 67; Cooling, pp. 5, 13; Gott, pp. 61, 62, 89.
^ Gott, pp. 62, 82.
^ Woodworth, pp. 73-74; Eicher, p. 171; Gott, p. 80.
^ Gott, pp. 88-89; Cooling, p. 13.
^ Nevin, pp. 63-65; Gott, pp. 92-95; Cooling, pp. 14-15.
^ Gott, pp. 97-98; McPherson, p. 397; Cooling, p. 15; Eicher, p. 172. ティルマンはボストンのウォーレン砦に収監され、ゲインズミルの戦いで捕虜になった北軍ジョン・F・レイノルズ准将と交換された。biography参照
^ Gott, p. 105.
^ Gott, pp. 105, 117.
^ Gott, pp. 107-14; McPherson, p. 397; Cooling, pp. 15-16.
^NPS FAQ on Forts Henry and Donelson; ⇒Clarksville, Tennessee Leaf-Chronicle article on Fort Heiman property transfer[リンク切れ], published October 31, 2006.

関連項目

南北戦争

西部戦線 (南北戦争)

ドネルソン砦の戦い

参考文献

Cooling, Benjamin Franklin, The Campaign for Fort Donelson, U.S. National Park Service and Eastern National, 1999,
ISBN 1-888213-50-7.

Eicher, David J., The Longest Night: A Military History of the Civil War, Simon & Schuster, 2001, ISBN 0-684-84944-5.

Esposito, Vincent J., West Point Atlas of American Wars, Frederick A. Praeger, 1959.

Gott, Kendall D., Where the South Lost the War: An Analysis of the Fort Henry—Fort Donelson Campaign, February 1862, Stackpole books, 2003, ISBN 0-8117-0049-6.

McPherson, James M., Battle Cry of Freedom: The Civil War Era (Oxford History of the United States), Oxford University Press, 1988, ISBN 0-19-503863-0.

Nevin, David, and the Editors of Time-Life Books, The Road to Shiloh: Early Battles in the West, Time-Life Books, 1983, ISBN 0-8094-4716-9.

Simon, John Y. (ed.), Papers of Ulysses S. Grant: January 8 - March 31, 1862, Vol. 4, Southern Illinois University Press, 1972, ISBN 0-8093-0507-0.

Woodworth, Steven E., Nothing but Victory: The Army of the Tennessee, 1861 – 1865, Alfred A. Knopf, 2005, ISBN 0-375-41218-2.

National Park Service battle description


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