ヘンリー・フォンダ
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1941年にはパラマウント社に貸し出されて『レディ・イヴ』に出演、普段の生真面目なイメージのフォンダからも予想もつかないドタバタ喜劇に挑戦し、新たな一面を開拓した。『レディ・イヴ』出演後にアメリカ海軍に入り、3年の間、第二次世界大戦に従軍し、武功を上げてブロンズスターメダルと大統領感状が与えられる。

戦後、軍隊除隊後に再びフォードと組んで、OK牧場の決闘を描いた1946年の『荒野の決闘』でワイアット・アープを演じる。あまり自分のことは語りたがらないフォンダも「数少ない納得できた作品」と語っている。翌年の『逃亡者』と1948年の『アパッチ砦』でもフォードと組んで、ジョン・ウェインと並びフォード映画には欠かせない主演俳優となる。ダリル・F・ザナックの利益優先方針とマッカーシー上院議員による赤狩りに嫌気がさし、それまで契約していたフォックスとの契約が切れ、他のスタジオとの長期契約を嫌ったフォンダはブロードウェイに戻り、1948年にローガンの舞台『ミスタア・ロバーツ』で主演する。上演回数1157回に及ぶヒットとなり、フォンダはトニー賞を受賞するなど、このロバーツ役はトム・ジョード、ワイアット・アープに続く当たり役となった。このように主に人間味豊かで善良な役を意欲的に演じ続け、ハリウッドでも息の長いスターとなる。特に英語の語り口は絶妙であり、とんとん拍子に数多くの傑作を自分のものとしていった。西部劇映画『胸に輝く星』より(1957年)

6年ほどハリウッドから離れた後、スクリーンに復帰。復帰作である映画版の『ミスタア・ロバーツ』でもロバーツを演じたが、フォンダは撮影開始前から演出を担当したフォードのやり方に満足できず、ついにはフォンダが彼の演出が間違っていると非難し、怒ったフォードはフォンダを殴りつけてしまいフォードとは決別、これが2人が組んだ最後の映画となってしまう。幸い映画は大ヒットを記録し、フォンダのハリウッド復帰は成功する。

1950年代は『シーソーの二人』や『ケイン号の叛乱』などの舞台や、テレビシリーズ『胸に輝く銀の星』など映画以外でも活躍。映画もオードリー・ヘプバーンと共演した『戦争と平和』、アルフレッド・ヒッチコックの異色サスペンス『間違えられた男』などに出演。ただ『戦争と平和』についてだけは彼はこの映画に出演した事を後悔し、自作の回顧上映ではこの映画を含めることを拒否したという。1957年には、元々CBSのテレビドラマ(レジナルド・ローズ作、フランクリン・J・シャフナー演出、ロバート・カミングス主演)であった法廷劇『十二人の怒れる男』の映画化に自身もプロデューサーを兼ねて出演、ベルリン映画祭では最優秀作品賞を獲得するなどこれまた映画でも高い評価を得た。映画『ワーロック』の宣材写真(1959年)

1960年代には多くの西部劇映画や戦争映画に出演。1964年の核戦争の恐怖を描いた『未知への飛行』で手堅い演技を見せ、1968年にはセルジオ・レオーネ監督の『ウエスタン』で初めて幼い少年を射殺する残忍な殺し屋のボス悪役に挑戦。1970年代以降は主演作は減り、『ミッドウェイ』、『テンタクルズ』、『スウォーム』、『メテオ』などのオールスター映画にゲスト出演で止まるなど、それまでに比べて精彩を欠いた。1974年に心臓発作に襲われ、ペース・メーカーを入れる。また1979年には前立腺がんの手術を受ける。しかし70歳代になってもテレビや映画や舞台の出演は続けていた。この頃、1979年にピーターが監督した『グランド・キャニオンの黄金』にカメオ出演、1981年にジェーンが年老いた父親のために企画した『黄昏』でキャサリン・ヘプバーンと老夫婦役で主演、ジェーンも娘役として出演した。さらに同年の12月にはボストンのWCVB-TVのドラマ『夏の黄昏』に出演する。娘ジェーンとのショット(1970年)

1979年に長年の功績にトニー賞が贈られ、また1981年にはアカデミー特別賞を贈られた時は、まだ元気でロバート・レッドフォードの手からオスカーを受けていた。そして『黄昏』の演技により翌1982年にフォンダはアカデミー主演男優賞とゴールデングローブ賞を受賞、しかしこの時には体調がかなり悪化し、ジェーンが代わりに授賞式に出席した。結局この『黄昏』が遺作となって授賞式の5ヵ月後8月12日、77歳で心臓病により死去した。故人の意思を尊重して葬式は行われず、志のある人は自身の俳優としての出発点となったオマハ・コミュニティ・プレイハウスのヘンリー・フォンダ記念演劇センターへの寄付が呼びかけられた。

また俳優としてだけでなく、画家としても才能を持ち、自作の絵をギャラリーや展覧会に出品したり、絵葉書のデザインをしたこともあった。1981年にはハワード・タイクマンがフォンダとのインタビューをもとに彼の生涯を綴った『ヘンリー・フォンダ マイ・ライフ』が出版された(鈴木主税訳、文藝春秋、1982年、文春文庫で「ヘンリー・フォンダ」に改題再刊、1985年)。なお伝記写真集に『ヘンリー・フォンダ 映画・舞台で深い感動を生み出した名優』(近代映画社、2008年)がある。

1962年(昭和37年)、『西部開拓史』のアメリカに先駆けての公開の宣伝を兼ねて、11月24日に来日している。
私生活

ヘンリー・フォンダは生涯で5度結婚している。最初の妻で女優のマーガレット・サラヴァンとは1931年に結婚するも1933年に離婚。1936年にニューヨークの裕福な弁護士と死別し間もないフランシス・シーモア・ブロカウと結婚。ピーターとジェーンの2人の子供を儲けたが、フランシスは多忙で留守がちな上に浮気がちな夫に対し、寂しさを紛らわすため株の投資に没頭、散財し次第に心身を病み、1950年に精神病院で自殺した。フォンダは子供たちを動揺させないために、母親は心臓発作で死んだと教えたという。同年、以前から交際していたオスカー・ハマースタイン2世を継父に持つ舞台関係者のスーザン・ブランチャードと結婚し、養女を1人取るが、3年後に離婚。


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