ヘンリー・キッシンジャー
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ベトナム戦争からの米国撤退を決めた1973年のパリ和平協定ノーベル平和賞を同年受賞した[2]

ドイツヴァイマル共和政時代の1923年に生まれ、ナチス政権のユダヤ人迫害から逃れて1938年に米国へ移住[2]第二次世界大戦中の1943年に米国籍を得て、従軍して故郷ドイツへ渡った[2]。帰国後の1947年にハーバード大学に入って国際政治学博士号を取得し[2]、教授として働いた。

彼の政治キャリアは、ニクソン政権で1969年に国家安全保障問題担当補佐官として始まった[2]ウォーターゲート事件によりニクソンが1974年に大統領を辞任し、副大統領から昇格した、同じ共和党のフォード大統領の下でも政権に留まった[2]民主党ジミー・カーター大統領就任(1977年)に伴い政府の要職を退いたが、その後も晩年まで外交について活発な発言や大統領への助言、著述を続けた。

キッシンジャーは、リアリズム(現実主義)に基づく外交政策の擁護者として知られている。彼の外交政策は、アメリカの国益力の均衡を重視し、理想主義よりも現実主義を優先することで知られている。彼の政策はしばしば論争の的となり、戦火の拡大や人権侵害を招いたとして、ベトナム戦争のカンボジアへの拡大チリ・クーデターとそれに伴い成立した軍事政権による弾圧(コンドル作戦)、インドネシアによる東ティモール侵攻を推進・容認したという批判がある[2]

キッシンジャーは、1973年のノーベル平和賞を受賞したが、この受賞は当時から現在に至るまで物議を醸している。彼は現代の国際政治における重要な人物であり、その遺産は今日も多くの議論の対象となっている[3]
来歴
生い立ち

1923年、ドイツのフュルトユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれた。本来の姓名はハインツ・アルフレート・キーシンガー(ドイツ語: Heinz Alfred Kissinger)で、姓はドイツのバイエルン州にある温泉保養地として知られる都市「バート・キーシンゲン(英語版)」に由来する。父ルイス・キーシンガーは女子高で歴史地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘だった。
亡命アメリカの敵になることは危険かもしれないが、友人になることは致命的である(南ベトナムの傀儡政府を見捨て撤退したときの発言)──ヘンリー・キッシンジャー

1歳下の弟ヴァルターと共に幸福な少年時代を過ごしたが、1933年、反ユダヤ主義を掲げるナチ党の権力掌握により運命が一変した。一家は1938年に米国へ移住し、第二次世界大戦中の1943年に帰化した。なお、ドイツに残った親類はナチに殺害されたとされる。親類が本当に存在したか、殺害されたかの詳細は不明。

移住後はジョージ・ワシントン高校に3年半通う。後半2年間は夜間クラスで、昼間は髭そり用ブラシの工場で働き、週約15ドルの賃金が一家のアパート住まいの生活を助けていた。高校卒業後は、工場で働く一方で職場近くにあったニューヨーク市立大学シティカレッジ経営・行政管理学部(ニューヨーク市立大学バルーク校の前身)にもパートタイム学生として通い、特に会計学で優秀な成績を修めた。
軍歴

1939年に始まっていた第二次世界大戦で、1941年12月、米国はナチス・ドイツに宣戦布告。キッシンジャーは1943年に大学での学業を中断してアメリカ陸軍に入隊し、ドイツ語の能力を生かしヨーロッパ戦線の対諜報部隊軍曹として従軍した。すなわち、アレン・ダレスの部下としてOSS(後のCIA)に配属されたのである。
ハーバード大学院ハーバード大学生時代のキッシンジャー(1950年)

1947年に帰国してハーバード大学に入学[2]。1950年、政治学の学士学位を取得し、最優等で同大学を卒業する。引き続き同大学大学院に進学し、ウィリアム・ヤンデル・エリオット(英語版)の指導下、19世紀ヨーロッパ(欧州)外交史を研究し、1952年に修士学位を、1954年にはウィーン体制についての研究で博士学位を取得する[4]

この論文では、その後の100年間、欧州で大きな戦争が防がれた国際秩序が、どのようにして作られたかが論じられている。その要因の一つとして、敗れたナポレオンフランスに対して、メッテルニヒカースルレーらが、懲罰よりも、力の均衡の回復を重視したことを上げている。

1951年には日米学生会議に参加している。大学院生時には指導教授の庇護を受け、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて国際情勢について講義や議論を行うサマー・セミナーの幹事役となり、国内外にその後のワシントン入りにも繋がる人脈を形成した。日本からの参加者としては、中曽根康弘などがいた。
外交問題評議会参加

ハーバード大学院における博士課程修了後に、同大学政治学部で教鞭をとっていたが、外交問題評議会への参加を通じて、同時代の外交政策にも積極的な提言を始めた。外交問題評議会に関連して、後にビルダーバーグ会議にも毎年出席するようになった。

特にキッシンジャーはアイゼンハワー政権の採用した核戦略(大量報復戦略)の硬直性を辛辣に批判し、のちのケネディ政権が採用する柔軟反応戦略のひな型ともいえる、核兵器通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した[5]。1960年代にはケネディ大統領の顧問として外交政策立案に一時的に関与することとなる[6]。しかし、ケネディ政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任したマクジョージ・バンディが1961年のベルリン危機(英語版)に際してドイツ問題の専門家であるキッシンジャーを遠ざけたため、1年足らずの1961年11月に辞職している[7]

1960年代に入り、ベトナムでは中ソなど共産主義陣営が支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)やベトナム解放戦線(ベトコン)が、米国寄りのベトナム共和国(南ベトナム)政府打倒と統一を目指して武力闘争を展開し、ベトナム戦争が始まっていた。キッシンジャーは、南ベトナム駐在大使ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアの長男がハーバード大学で同僚だった関係で、大使の顧問として1965年から1966年にかけ3回、南ベトナムの首都サイゴンを訪問し、ベトナム戦争の現実を知った。


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