ヘロドトス
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ヘロドトスが故郷にいたころ、ハリカルナッソスは女傑として名高いアルテミシア1世の統治下にあった[1]。ヘロドトスが彼女を深く尊敬していたことは『歴史』の描写から明確に読み取ることができる[1]。その後アルテミシア1世の息子、または孫で僭主となったリュグダミスがハリカルナッソスを支配するようになると、ヘロドトスとパニュアッシスはリュグダミスに反対する政争に加わった。しかし、パニュアッシスは殺害され、ヘロドトスも故国を追われてサモスでの亡命生活に入った[1]。リュグダミスに対する反抗はその後も相次ぎ、恐らく前450年代初め頃に彼の政権は打倒された[1]。この過程にもヘロドトスは関わったとする見解もある[1]

ヘロドトスはサモスにある程度の期間滞在した後、アテナイに行き、ついでイタリアに建設された新植民市トゥリオイに前444年[8]、または前443年に移住した[9][4]。この都市はアテナイの支配者ペリクレスがギリシア各地から移民を集めて建設した都市であったがヘロドトスが参加した経緯は不明である[9][4]

ヘロドトスはサモスを去って以降、その人生のうちに少なくともアテナイキュレネクリミアウクライナ南部、フェニキアエジプトバビロニアなどを旅したはずであるが[10][11]、その具体的な年代をどのように想定するべきであるか明確ではない。ただしエジプトとバビロニアを訪れたのは人生の晩年、少なくともトゥリオイの市民であった頃であろう[11]

彼はこれらの旅で得た知見をまとめ『歴史』と呼ばれる著作を残した。この著作は失われることなく伝存する古典古代の歴史書の中では最古のものである[4]。この中にペロポネソス戦争に触れた記述を残していることから、ペロポネソス戦争勃発の頃(前431年)にはまだ生存していたと考えられる[12]。最後はトゥリオイで死亡したともアテナイに戻っていたとも言われるが、いずれも明確な証拠はない[9][11]
著作詳細は「歴史 (ヘロドトス)」を参照オクシュリンコス・パピルス 2099から発見された『歴史』8巻断片。2世紀初頭に記されたものとされる。

ヘロドトスは現在では日本語で『歴史』(: The Histories)と言うタイトルで知られる著作を残した。これは現代風に解釈するならば、全ギリシアを巻き込むことになったペルシア戦争を主題にした1種の同時代史であると言える[13]。この作品冒頭でヘロドトスは以下のように著者名と執筆の目的・方法を書いている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}これは、ハリカルナッソスの人ヘロドトスの調査・探求(?στορ?αι ヒストリエー)であって、人間の諸所の功業が時とともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バルバロイ)が示した偉大で驚嘆すべき事柄の数々が、とくに彼らがいかなる原因から戦い合う事になったのかが、やがて世の人に語られなくなるのを恐れて、書き述べたものである。—ヘロドトス、『歴史』巻1序文、桜井訳[14]

序文に記された戦いが全ギリシアを巻き込んだペルシア戦争であり、異邦人(バルバロイ)がペルシア人のことであるのは当時を生きた人であるならば誤解の余地のないところであった[15]

この文章はまた、著述の方法として調査・探求(?στορ?αι、historia)というギリシア語の単語を用いた現存最古の用例である[14]。最初に著者名を筆記し、執筆にあたっての主体性と責任の所在を明らかにするこの姿勢は、ミレトスのヘカタイオスを意識したものであったと見られる[12][14]


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