ヘロデ大王
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^ ただし、同時にヒルカノスがユダヤの民族指導者・大祭司であることも認められていた。(シューラー(2012 I)p.373
^ 『ユダヤ古代誌』XIV巻9章2節ではどの写本もヘロデの年齢を「15(ιε)」としているが、XVII巻6章1節ではこれより40数年ほど先の死ぬ少し前のヘロデが「70歳近く」としているので「25(κε)」の写し間違えではないかという説をエミール・シューラーはあげている。
シューラー(2012 I)p.385註29
^ ヒルカノスのローマへの贈り物を自分名義に出すほどになっていた
^ この人物はかつてカッシウスへ貢納金として金をとられ、カッシウスや集金をしたアンティパトロス達に抵抗的な態度を取っていた。
^ かつてヘロデの父アンティパトロスが原因でクーデターに失敗したヒルカノスの弟アリストブロス(2世)の息子。ヒルカノスの甥でもある。
^ 以下特筆ない場合「マリアムネ」とだけある場合はハスモン家の彼女を指す。
^ その後、ヒルカノスは大祭司に復位できないように耳を切り落とされ、ファサエロスはヘロデは逃げのびたことを知ると自害した、もしくは重傷を負ったところに毒を塗られて死亡したと『ユダヤ古代誌』第XIV巻13章10節にはある(ヨセフス2000/1) p.355-356)。
ファサエロスの最期は異説もあり、ゲオルギウス・シュンケルス(Georgius Syncellus)の書の中でユリウス・アフリカヌスとシュンケルスの報告という形で「ファサエロスは戦死」という趣旨の記述がある。しかしながらヨセフスの非常に克明な話よりこれらの短い言及を優先させる理由はないとシューラーは『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』で記している。(シューラー(2012 I) p.387註52
^ 現在のキルベト・コレイサと呼ばれるヘブロンの南約8マイルの所
^ a b このヨセフスは『ユダヤ戦記』や『ユダヤ古代誌』の著者とは同名の別人。
^ 彼はパルティア側からヘロデを受け入れないように圧力を受けていた。
^ なお、『ユダヤ古代誌』XIV巻14章5節によると、ヘロデの当初の計画はヒルカノスの孫(マリアムネの弟)のアリストブロス3世を王としてローマに認めてもらい、彼を正当な王として担いでアンティゴノスに対抗する予定だったとされる。
^ この数字はヨセフスが『ユダヤ古代誌』第XIV巻16章4節であげている当時のローマ執政官の名前と、第XIV巻15章14節の「包囲開始はローマで王と認められて(ヨセフスはこれを「第184回のオリンピアードの時」と『古代誌』XIV巻14章5節で言っているのでBC40年7月以前)から3年目」という記述から。
異説としてカッシウス・ディオが『ローマ史』XLIX巻22章3-23節で「この時の執政官」として挙げている人物(ヨセフスがあげている人物とは異なる)の名前やシリアのサモサタで起きた戦闘の話からBC38年、またヨセフス自身が『古代誌』第XIV巻16章2節でエルサレム制圧を「安息年(7年に一度の風習)の時だったので(作付けをしておらず)食糧が底をついていた」と言っていることと、ポンペイウスによるエルサレムの占領(BC63年晩秋)から27年後の同じ日にソシウスのエルサレム制圧が起きたという記述から、包囲開始をBC36年春から夏にする説もある。ただしディオの記述は短い文章でさらりと語るだけなのであまり支持されず、後者も「27年後の同じ日」をBC37年と解釈することもできる(シューラー(2012 I) p.392-395註11)。また第XV巻1章2節((ヨセフス2000/2) p.15)にもヘロデが王になってからも「この年は7年に一度の土地を休ませる?」という記述がある。
^ ただし異説としてストラボンは歴史書で「アントニウス自身、アンティゴノスを危険視してヘロデの支配が安定するように処刑した」という説明をしていたらしく(この書は現存せず)、ヨセフス自身が『ユダヤ古代誌』XV巻1章2節でこの話を引用している。
^ ポリオンとサマイアスはかつてヘロデが裁判にかけられた際「ヘロデをここで助命するといつか皆の死につながる」と言い出した人物であったが、彼らは包囲戦の時ヘロデにつくように市民を説得したので、逆に裁判の時にいた議員のうち彼らだけはヘロデに殺されることはなかった他、カエサルへの忠誠とヘロデの統治に従う誓いをしないものを処刑したが、ポリオン達はエッセネ派の人々とともに大目にみられていた。
(『ユダヤ古代誌』XIV巻9章4節・XV巻1章1節・10章4節(ヨセフス2000/1) p.301-302(ヨセフス2000/2) p.13-14・117
^ もっともヨセフスは「ヘロデには両方下心があり、ヒルカノスやアリストブロスが手元にいることで自分の地位の安定につながると考えていた」としている。
(『ユダヤ古代誌』XV巻2章全般。(ヨセフス2000/2) p.16-24
^ これによって彼女はアリストブロスとともにエジプトのクレオパトラのもとに亡命を計画したが途中で発覚し失敗に終わった。
^ ヘロデ側は事故としたが、ヨセフスは「この死は彼の人気に嫉妬したヘロデによる暗殺で、アレクサンドラやマリアムネもそう考えていた」としている。
『ユダヤ古代誌』XV巻2章4節-3章4節((ヨセフス2000/2) p.19-31
^ ヘロデが死んだ場合マリアムネを殺すように叔父ヨセフスは命令を受けていて、これをマリアムネたちは聞き出していた。
^ これは『ユダヤ古代誌』での記述で『ユダヤ戦記』ではこういったことがあっても丁寧に接したという記述になっている。
^ ヨセフスはどちらが勝っても負けた方の領地を入手できるクレオパトラの策略としている
^ ヨセフスは本人の温厚な性格などからヘロデによる濡れ衣としている。(『ユダヤ古代誌』XV巻6章3節)
^ アントニウスの友人の1人、この時処刑が決まっていた
^ 参考までにいうとヘロデの死後、この時点よりさらに拡大していた彼の領地を相続した息子3人と妹のサロメの領地の年収合計は960タラントであった(『ユダヤ古代誌』XVII巻9章4節((ヨセフス2000/2) p.351-352)のでかなりの出費だった。
^ ヨセフスはサロメが王の酌人を買収して偽証をさせたとしている。
^ 『ユダヤ古代誌』XV巻7章4節によると「ヘロデのカエサル訪問から1年後」とされている((ヨセフス2000/2) p.76)。
^ なお、ヨセフスは『ユダヤ古代誌』XV巻7章末尾((ヨセフス2000/2) p.88)で「これでヒルカノスの親族はだれ一人生き残った者はいなくなった」という趣旨の事を書いているが、これは「男で」という意味らしく、『ユダヤ古代誌』XVII巻5章2節ではこれから20年ほど後の話に「(ヒルカノスの甥)アンティゴノスの娘」が出てくる。(シューラー(2012 II) p.43註53
また、この時点ではマリアムネとヘロデの間の息子たちも生存している。
^ 極端な例では宮殿建設の頃、アレクサンドリア人の祭司の娘マリアムネ(2世)と結婚するため、家柄が微妙な彼女が王と結婚できるようにと私情以外の何物でもない理由で彼女の父親を大祭司に任命したこともあった。
(『ユダヤ古代誌』XV巻9章3節((ヨセフス2000/2) p.103
^ エルサレムに送る奉納金が横取りされる問題や、律法に反する行動をとる軍役や市民活動への強制の問題など、ユダヤ人はハスモン朝期にローマの下に入った際、律法を守っての生活は認められていた。
^ コロスは体積の単位、物によって違うが1コロスはヨセフスの計算ではアッティカ・メディムノスの10倍、訳者の秦によると実際には7倍。メディムノスそのものは時代や物によって異なるが、ソロンの時代のアテネでは500メディムノス収穫できる畑を持っていればあれば最上流階級だった(詳しくはソロン#政治改革を参照)。
^ 管理が不十分で治安が悪いという理由でゼノドロスはこの3地方を没収されていた。
^ ヘロデ一族の君主貨幣はいくつか見つかっているがすべて普通の同盟領主と同様に銅貨である。ローマ帝国では同盟領主の内銀貨鋳造はごく限られたもののみ認められ、金貨鋳造ができた同盟領主は確認されていない。
^ 『ユダヤ戦記』I巻30章1節 ((ヨセフス2002/2)p.212-213)ではフェロラスが妻に毒殺された(ただしアンティパトロスとは無関係でフェロラス自身はむしろアンティパトロス側の人間)としている。
^ この時点での王位継承順は「アンティパトロス→マリアムネ2世の子のヘロデ」の順で、当時の大祭司の孫より高位の扱いだった。
(『ユダヤ戦記』I巻29章2節(ヨセフス2002/2) p.209・『ユダヤ古代誌』XVII巻3章2節(ヨセフス2000/2) p.270
(ただし『ユダヤ戦記』I巻30章2節によるとアンティパトロスは息子に王位継承ができず、「アンティパトロスの死後はマリアムネ2世の子のヘロデが継ぐ」という順序だった)
^ ヨセフスはこの「ヘロデへの悪口」は実際はアンティパトロスの策略だったとしている。
『ユダヤ戦記』I巻32章7節((ヨセフス2002/2) p.233)・『ユダヤ古代誌』XVII巻4章3節((ヨセフス2000/2) p.278
^ 寄生虫や潰瘍による病気があったとヨセフスはしており、このためにヘロデはヨルダンのカリルロエという所(死海北東端付近)の温泉に療養に行ったが、浴槽で意識を失うほど弱っていたという。
(『ユダヤ戦記』I巻33章5節((ヨセフス2002/2) p.236-237)、『ユダヤ古代誌』XVII巻6章1節((ヨセフス2000/2) p.307-308))
^ ヘロデは「任命から37年間統治・エルサレム征服から34年後で過ぎ越しの祭りの少し前に死亡した」と『ユダヤ古代誌』XVII巻8章1節・9章3節にあり、任命が紀元前40年の冬であることから単純に計算すると紀元前3年の3?4月死亡になるが、以下の根拠より端数切り上げの誤差が妥当とシューラーは説明する。
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