ヘロイン
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2000年代のアメリカではオキシコドンなどの処方薬の過剰摂取死(OD)が問題となっていたが[13]、2012年には急増したヘロインによる死亡がトップとなった[14]。この理由は、コーティングを剥いで砕くことが容易なオキシコドン徐放錠の製法が製薬会社により変更されたため、その処方薬依存症患者が摂取しやすく、同等の効果が安く手に入るヘロインにシフトした為である。

日本国内では麻薬及び向精神薬取締法によって、その製造・所持・使用は制限されている。専門家によって薬物の評価では、ヘロインは多幸感3点、精神的依存3点、身体依存3点といずれも最高の3点となっている唯一の薬物である[15]。「オピオイド乱用」も参照
合成

ヘロインはモルヒネの持つ2つの水酸基を、共に酢酸とのエステルにした分子である。これを合成するためには、モルヒネを無水酢酸で数時間煮る[10]。ジアモルヒネは20世紀後半に合成され、粗モルヒネをアセチル化する[3]。鏡像異性体は5種類になるが、天然に生じるのは1つである[3]
薬物動態

ヘロインの血中濃度の半減期は、約3分である[3]。モルヒネとは異なり酢酸エステル化している。そのため、モルヒネより脂溶性が高く、血液脳関門をモルヒネより容易に通過する。なお、ヘロインは体内各所で、酢酸2分子とモルヒネに分解される。その後はモルヒネと同様の動態をする。(要出典)
過剰摂取

ヘロインに関連した過剰摂取の死亡は多く、アルコールやベンゾジアゼピン系、モルヒネなど他のオピオイドとの併用は死亡リスクを高める[16]。過剰摂取の影響を無効にするにはナロキソンやナルトレキソンが用いられる。ナロキソンを広く入手可能にすることが必要とされている[13]
依存性複数の専門家による危険性の相対性を数値化したグラフ[15]

薬物の危険性を最高3点として数値化した研究によれば、ヘロインは快感3点、精神的依存3点、身体依存3点と依存性は最高の3点となっている唯一の薬物である[15]

上述のバロウズは、1950年代にアメリカのヘロインは売人が粉ミルクや砂糖などでどんどん薄めるために、望みもしないのに減量治療を受けさせられており、依存の治療を求めて来院したときには度合いが軽くなっており、結果としてごく短期間1週間ほどで完全に治ると記している[17]。例えば、ベトナム戦争で出回ったものは純度が90パーセント以上のものであったが、アメリカに帰国した兵士らは2パーセントから10パーセントのものにしかありつけなかった[18]
離脱症状

多量の長期のオピオイドを中止あるいは減量すると、怒りやすいなど、痛みに対する感受性の増加から始まり、薬物を渇望して行動に落ち着きがなくなり、腰や足に痛みを感じるようになる[19]。そして、不快な気分、吐き気や嘔吐、筋肉痛、涙や鼻漏、散瞳や起毛や発汗、下痢、あくび、発熱、不眠といった症状が出現する[19]。ヘロインでは最後の摂取から6?24時間以内離脱症状が生じ、1?3日でピークに達し、5?7日で軽快する[19]。急性でない離脱症状として、不安、不快、無快感、不眠、薬物への渇望が、数か月にわたって続くこともある(遷延性離脱症候群[19]

身体中の関節に走る激痛、小風に撫でられただけで素肌に走る激痛、体温の調節機能の狂いにより生じる激暑と酷寒の体感の数秒ごとの循環、身体中に湧き上がる強烈な不快感と倦怠感などが挙げられる。こうした一連の症状は「地獄そのもの以外の何でもない」などと表現される苛烈なもので、この禁断症状を指していうコールド・ターキー (英語: cold turkey)というスラングが生まれた。このスラングは、1969年に歌手のジョン・レノン(プラスティック・オノ・バンド)が発表した楽曲 Cold Turkey(邦題「冷たい七面鳥」)によって世界的に著名となった。レノンはこの曲を通して薬物の禁断症状の恐ろしさを世に知らしめようとしたつもりだったが、ドラッグソングと誤解を受け放送禁止にした放送局もあったという。
依存症の治療

1970年代以前の過去には、ヘロインなどモルヒネ型の薬物では早期の離脱が最良の治療法と考えられていたが、1970年、世界保健機関の委員会は、投与量の漸減が効果的であるとの見解を示した[20]。以前に離脱症状があるかを確認し、離脱を経験し薬物に依存している場合にだけ離脱を管理する必要があり、メサドン維持療法またはブプレノルフィンなどのオピオイド置換療法が考慮される[21]

従来用いられてきたより有害性が低いオピオイド作動薬であるメサドンに置換する治療法がある[22]。メサドンは長時間作用するため、離脱症状が出現するまでに2?4日かかる[19]。21世紀に入り、オピオイド部分作動薬のブプレノルフィンも用いられている。

重度の依存症患者がヘロイン摂取をいきなり中断すると、上記の離脱症状により苦しめられる可能性が高い。日本では薬物依存者に対して、ブプレノルフィンなどの治療薬を用いた原因療法は事実上不可能なため、自然治癒力を用いた対症療法しか手立てが無いのが現状である。つまり、ひたすら我慢するしかない。「en:Heroin-assisted treatment」も参照
歴史古いヘロインの瓶(バイエル社アメリカのバイエルからのアスピリンとヘロインの広告

ロンドン(イギリス)の聖マリア病院のライト (C. R. Write) が1874年にジアセチルモルヒネを合成するものの[8]、疲労感、眠気、恐れ、吐き気を起こし実験を中止した[10]。1890年にドイツの科学者ダンクヴォルト(W. Dankwort)が別の合成法で同じ誘導体を合成し、その性質についてエルバーツェルト色素製造工場・薬理研究所のドレーザー(H. Dreser)が見出した[8]

エルバーツェルト色素製造工場・薬理研究所は、バイエルの前身に当たる[8]。ベルリン大学病院とバイエルが試験し、1898年[23]に商品名ヘロインで発売に至る[8]。名称はギリシア語のヘロス(h?r?s、ヒーロー)に由来する。ドイツの科学者は、気管支炎、慢性の咳や喘息、肺結核に効果があると結論づけ、モルヒネなどに代わる依存作用のない薬であると発表、国際的に広告しどのような病気にも効く、副作用のない奇跡の薬のように言われ、医師と薬局から無制限に市場に流れることとなった[10]。その後30年以上、ドイツでは自由に入手可能であった[8]

中国では、1906年に政府がアヘン一掃を画策し、イギリス製アヘンが市場から根絶されるに至ったものの、単にモルヒネやヘロインへと移行しただけであった[24]。中国では1920年代ごろ、ヘロインは当初モルヒネと同様にアヘン常用の治療になるものと信じられ、医療用ならモルヒネ共に合法で輸入できフランス製のヘロインが時に日本を経由して中国へ送られ、常用が広がるにつれ密輸・闇市場が増大した[25]

1912年の万国阿片条約が、ドイツで1921年に批准されると、麻薬に指定され回収された[8]。(アヘンやモルヒネの誘導体を規制するこの条約は、第一次世界大戦のため各国の条約の批准が延期されていた[9])1924年にはアメリカでも医薬品として取り消された[8]。アメリカではその年、常用者は推定20万人と見積もられた[10]

国際規制によって、ヨーロッパの工場ではなく、中国・上海の密造工場や、フランスのマルセイユのコルシカ人による犯罪シンジゲートへと移る[10]


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