のちにアメリカの作家として知られるようになるウィリアム・バロウズは、1945年にモルヒネを使い始め依存するようになり、売人となったが、1956年にはイギリスで治療を受けてその状態を脱した[27]。1953年にタンジェ(タンジール)にてバロウズがヘロインに溺れ、体調が悪そうだと友人が記している[28]。
1961年の麻薬に関する単一条約が規制を引き継いでいる[9]。日本においては1955年頃にヘロインの密売が大都市の貧困街や軍事基地の周辺で活発となり、ピークの1961年には4万人の嗜癖(依存)者がいたが、(当時の)麻薬取締法改正に伴う罰則の強化により、嗜癖者は急激に減少した[29]とされる。もっとも、まともな治療・支援無しに依存者が社会復帰出来たのか疑問は残る[30]。
ベトナム戦争では、ラオス北東部で戦争を行っていたメオ族を支援するため、アメリカ中央情報局 (CIA) が市場へのアヘン運搬を支援し、1965年から1971年までCIAの秘密の航空会社であったエア・アメリカが空輸した[11]。1965年に、ラオスのアヘン製造所は、高純度90パーセント以上のヘロインを精製するようになっており、これらは結局は、ベトナム駐留米軍の兵士の手に渡った[11]。1968年に南ドイツで不法なヘロインが登場する[8]。ベトナム戦争で負傷した兵は治療のために、不運にも西ドイツに送られた[8]。帰国したベトナム帰還兵は密売を思いつく[31]。
アメリカで麻薬患者は白人社会に流行し、1969年末には推定31万5千人とされ、4年前の約5倍に膨れ上がり、1971年推定56万人となったころ同年6月にニクソン大統領が、薬物に対する戦いを宣戦布告する[12]。1970年代のイギリスパンク・ロックを描いた映画『シド・アンド・ナンシー』では、麻薬クリニックへ通院するシーンがあり、ヘロインの産地が黄金の三角地帯であり、アメリカの若者が戦争で死んでゆくなか、中央情報局(CIA)がそこへヘロインを運んでいたという逸話が語られる[32]。
1990年代でも黄金の三角地帯、黄金の三日月地帯で生産されるようになったアヘンから、ジャングルの中で、モルヒネの分離を経てヘロインが製造される[33]。1996年のイギリス映画『トレインスポッティング』では、ヘロインの売人としての主人公が描かれた。アメリカにおけるヘロインによる過剰摂取死亡
アメリカでは、2000年以降では、ヘロインを乱用した者の75%が処方薬のオピオイドによって乱用を開始していた[34]。アメリカでの処方されたオピオイドによる過剰摂取死は2009年までの10年間で4倍となり、将来のヘロインによる死亡につながるのではと懸念されているが、2009年までではヘロインでの死亡の増加は見られていない[13]。しかし、2010年と2011年に薬物過剰摂取死の最多であったオキシコドンを、2012年に急増したヘロインが上回った[14]。
出典[脚注の使い方]^ Rook, Elisabeth J.; Van Ree, Jan M.; Van Den Brink, Wim; Hillebrand, Michel J. X.; Huitema, Alwin D. R.; Hendriks, Vincent M.; Beijnen, Jos H. (2006). “Pharmacokinetics and Pharmacodynamics of High Doses of Pharmaceutically Prepared Heroin, by Intravenous or by Inhalation Route in Opioid-Dependent Patients”. Basic & Clinical Pharmacology & Toxicology 98: 86?96. doi:10.1111/j.1742-7843.2006.pto_233.x.
^ “ ⇒Chemical Sampling Information: Heroin”. Osha.gov. 2010年10月20日閲覧。
^ a b c d “ ⇒Heroin drug profile”. 欧州薬物・薬物依存監視センター (2015年1月8日). 2016年9月13日閲覧。