ヘレン・ケラー
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1936年10月20日、サリヴァンが死去した。フォレスト・ヒルズの家からコネチカット州のウエスト・ポートに移転した。1939年、ウエスト・ポートで、慈善家によってケラーのために特別に建てられ寄贈された家に転居した。

1946年11月、トムソンとともに海外盲人アメリカ協会の代表としてヨーロッパを訪問中、住宅が全焼した。この火災によって原稿、資料その他貴重な所有物をほとんど失った。1947年10月、住宅を再建し入居した。

1951年南部アフリカを訪問した。1952年フランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を授けられた。同年から1957年にかけて、中東中部アフリカ北欧、日本を訪れた。

1955年、サリヴァンの伝記『先生』(原題: Teacher, Anne Sullivan Macy)を出版した。

1960年、トムソンが死去した。1961年、軽い脳卒中になり、徐々に外界との接触を失っていった。1964年9月、アメリカ政府から大統領自由勲章が贈られた。

1968年6月1日老衰のため、コネチカット州イーストンの自宅で死去した。87歳没。88歳の誕生日の約4週間前の死であった。ワシントン大聖堂で葬儀が行われ、地下礼拝堂壁内の納骨堂にサリヴァン、トムソンと共に葬られている。
日本との関係、訪日

ケラーは少女時代に、日本から渡米留学していた若き教育者石井亮一と面会しており、ヘレンが初めて会った日本人とされている。石井は日本初の知的障害児者教育・福祉施設「滝乃川学園」を創立し、「日本の知的障害児者教育・福祉の父」と言われている。ケラーを快く思わない者も少なくなく、日本の外交官重光葵の手記『巣鴨日記』[6]によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、ケラーのニュースが耳に入ってきた際、ケラーのことを「あれは盲目を売り物にしているんだよ」とこき下ろす者もいた。このことに関して重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人の為めに悲しむべし」と元将官たちを痛烈に批判すると同時に、彼らの見解の偏狭さを嘆いている。

幼少時、ケラーは同じく盲目の塙保己一を手本に勉強したという。塙のことは母親から言い聞かされていたとされる[7]1937年4月26日、ケラーは渋谷の温故学会を訪れ、人生の目標であった保己一の座像や保己一の机に触れている。ケラーは「先生(保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語っている。「塙保己一#逸話」を参照

サリヴァンは亡くなる直前、サリヴァンが病床にあるという理由で岩橋武夫日本ライトハウス館長)からの来日要請をためらっていたケラーに「日本に行っておあげなさい」と遺言したという[7]1937年昭和12年)、岩橋武夫の要請を受け訪日し、3か月半に渡り日本各地を訪問した。4月15日浅間丸に乗りトムソンとともに横浜港に到着した。横浜港の客船待合室で財布を盗まれてしまったが、そのことが新聞で報道されると日本全国の多くの人々からヘレン宛に現金が寄せられた。その額はケラーが帰国するまでに盗まれた額の10倍以上に達していた。4月16日新宿御苑で観桜会が開催され、昭和天皇香淳皇后が行幸啓[8][9]。観桜会に出席したケラーは、昭和天皇に拝謁した[9]4月19日には大阪、4月29日には盲人教育者の斎藤百合が主催する催しで東京・日本青年館で講演[10]4月30日には埼玉、そして5月以降も7月半ばまで日本各地を次々と旅して回った。

この訪日でケラーは「日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子と会った。「彼女は私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と賞賛した。早稲田大学[11]、東京盲学校(現:筑波大学附属視覚特別支援学校)、同志社女子専門学校[12]、近江兄弟社女学校(現:近江兄弟社高等学校)、東北学院[13]などを訪問した。8月10日に横浜港より秩父丸に乗りアメリカへ帰国した。秋田県での講演会の際に記念として秋田犬を所望し、秋田警察署の小笠原巡査部長が連れてきていた仔犬(神風号)が贈られた[14]。なお、神風号は渡米して2か月で亡くなってしまったため、1939年に小笠原の愛犬「剣山号」が贈られている[14]

1948年(昭和23年)8月、2度目の訪日。2か月滞在して全国を講演してまわった。これを記念して2年後の1950年(昭和25年)、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。

1955年、3度目の訪日も実現し熱烈な歓迎を受けた[注 2]。訪日の理由の1つは、1954年(昭和29年)に没した朋友岩橋武夫に花を手向けるためであった。 ケラーは空港で岩橋の名を叫び、岩橋の家では泣き崩れたという。勲三等瑞宝章を授けられた。

死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られた。
政治的活動

ケラーは福祉活動のみならず、広範囲な政治的関心を持って活動した女性であった。当時としては先進的な思想を持ち、男女同権論者として婦人参政権、コンドームの使用を主張した。また、人種差別反対論者であり、過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮にも反対した。

これらの活動のため、ケラーはFBIの要調査人物に挙げられている。最初の訪日の際には特別高等警察の監視対象になっていた[16]
人物マサチューセッツ州テュークスベリーに設置されているヘレンとサリヴァンのブロンズ像

「三重苦」だったと言われているが、発声に関してはある程度克服した。ケラーの妹の孫によれば、抑揚はないものの話すことができたという[17]。ケラーは健常者と同様に、乗馬複葉飛行機の同乗を体験した。

秘書で元新聞記者のピーター・フェイガンと相思相愛になり婚約までしたが、独断だったこともあってケラーの家族の反対に遭い、破談にさせられた。特に、保守的な思想を持つケラーの母は、労働運動をしていたフェイガンを嫌っていた。ケラーの妹ミルドレッドの夫によると、母の反対ぶりはライフルをフェイガンに向けて「今後一生近付くな。さもなければ射殺する」と脅迫するほどだったという。結局、フェイガンは秘書を辞めさせられたばかりか、これがケラーとの今生の別れとなり、別の女性と結婚。一女をもうけたのちに没した。ケラーもこれが最初で最後の恋愛となり、生涯独身を通した[7]

ケラーは、自身の考える20世紀の三大重要人物を問われて、エジソンチャップリンレーニンを挙げている。ケラーは優生学を支持していた。 1915年に、ヘレンは重度の精神障害または身体的奇形のある乳児に対する安楽死を支持するという書簡を発表し、「人生に高潔さを与えるのは幸福、知性、才覚の可能性であり、不健康な、奇形の、麻痺した、思考をしない生き物の場合、それらは存在しない」「精神障害者はほぼ確実に、潜在的な犯罪者になる」と述べた[18][19][20]


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