ヘイゼルの悲劇
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その一方でサポーターによる暴動は、鉄道飛行機を使用した低料金での旅行が可能になり、行動範囲が広がった[16][23]ことから、遠征先となるヨーロッパ各国のスタジアム周辺でも行われ、1974年5月29日にオランダロッテルダムで行われたUEFAカップ決勝第2戦・フェイエノールトトッテナム・ホットスパー[26][27]や、1975年5月28日にフランスパリで行われたUEFAチャンピオンズカップ決勝・バイエルン・ミュンヘンリーズ・ユナイテッド[26][27]1980年6月12日にイタリアのトリノで行われたUEFA欧州選手権1980グループリーグ、イングランドベルギー[26]などで暴動を引き起こした[14]。主なトラブル

日付対戦カード大会開催地備考出典
1974年5月トッテナムフェイエノールトUC 決勝 オランダロッテルダム負傷者200人、逮捕者70人[28]
1975年5月リーズバイエルンCC 決勝 フランスパリ負傷者40人、逮捕者27人[28]
1976年9月サウサンプトンマルセイユCWC 1回戦 フランスマルセイユ負傷者200人[28]
1977年9月マンチェスターUサンテティエンヌCWC 1回戦 フランスサンテティエンヌマンUに罰金7,000ポンド、中立地でのホームゲーム開催[28]
1980年6月イングランドベルギーEURO イタリアトリノ罰金8,000ポンド[28]
1980年9月ウェストハムカスティージャCWC 1回戦 スペインマドリードウェストハムに罰金、ホームゲームの無観客開催[28]
1981年5月イングランド対スイスWC 予選 スイスバーゼル負傷者16人、逮捕者59人[28]
1981年9月イングランド対ノルウェーWC 予選 ノルウェーオスロ逮捕者20人[28]
1982年9月イングランド対デンマークEURO 予選 デンマークコペンハーゲン逮捕者41人[28]
1983年11月トッテナム対フェイエノールトUC 2回戦 オランダロッテルダム負傷者30人、逮捕者40人、罰金8,000ポンド[28]
1983年11月イングランド対ルクセンブルクEURO 予選 ルクセンブルクルクセンブルク負傷者2人、逮捕者18人、罰金10,000ポンド[28]
1984年5月トッテナム対アンデルレヒトUC 決勝 ベルギーブリュッセルトッテナム側に死者1人[28]

1980年代に入り、長引く経済不況の対策としてマーガレット・サッチャー首相は、財政支出の削減と通貨供給量の縮小によるインフレの抑制[29]、国営企業の民営化と経済活動への規制緩和[30]、労働組合運動を雇用法の改正により規制[29][30]、税制改革[29]、行政改革、教育改革[31]、福祉制度見直し[32]などの改革を実施したが、これにより大量の失業者を生み出すことになった[29]。1985年当時のイギリスの失業率は13%を記録していたが、産業の構造転換に乗り遅れたリヴァプールなどの工業都市の若年失業率は30%に達しており、社会全体の閉塞感が暴動の頻発に繋がっているとの指摘がされた[22][33]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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