日付対戦カード大会開催地備考出典
1974年5月トッテナム対フェイエノールトUC 決勝 オランダ・ロッテルダム負傷者200人、逮捕者70人[28]
1975年5月リーズ対バイエルンCC 決勝 フランス・パリ負傷者40人、逮捕者27人[28]
1976年9月サウサンプトン対マルセイユCWC 1回戦 フランス・マルセイユ負傷者200人[28]
1977年9月マンチェスターU対サンテティエンヌCWC 1回戦 フランス・サンテティエンヌマンUに罰金7,000ポンド、中立地でのホームゲーム開催[28]
1980年6月イングランド対ベルギーEURO イタリア・トリノ罰金8,000ポンド[28]
1980年9月ウェストハム対カスティージャCWC 1回戦 スペイン・マドリードウェストハムに罰金、ホームゲームの無観客開催[28]
1981年5月イングランド対スイスWC 予選 スイス・バーゼル負傷者16人、逮捕者59人[28]
1981年9月イングランド対ノルウェーWC 予選 ノルウェー・オスロ逮捕者20人[28]
1982年9月イングランド対デンマークEURO 予選 デンマーク・コペンハーゲン逮捕者41人[28]
1983年11月トッテナム対フェイエノールトUC 2回戦 オランダ・ロッテルダム負傷者30人、逮捕者40人、罰金8,000ポンド[28]
1983年11月イングランド対ルクセンブルクEURO 予選 ルクセンブルク・ルクセンブルク負傷者2人、逮捕者18人、罰金10,000ポンド[28]
1984年5月トッテナム対アンデルレヒトUC 決勝 ベルギー・ブリュッセルトッテナム側に死者1人[28]
1980年代に入り、長引く経済不況の対策としてマーガレット・サッチャー首相は、財政支出の削減と通貨供給量の縮小によるインフレの抑制[29]、国営企業の民営化と経済活動への規制緩和[30]、労働組合運動を雇用法の改正により規制[29][30]、税制改革[29]、行政改革、教育改革[31]、福祉制度見直し[32]などの改革を実施したが、これにより大量の失業者を生み出すことになった[29]。1985年当時のイギリスの失業率は13%を記録していたが、産業の構造転換に乗り遅れたリヴァプールなどの工業都市の若年失業率は30%に達しており、社会全体の閉塞感が暴動の頻発に繋がっているとの指摘がされた[22][33]。