ヘイスティングズの戦い
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ウィリアムは戦場の地に修道院を建設し、おそらくはハロルドが死んだ場に修道院教会の高位祭壇が置かれた。
背景バイユーのタペストリー」第27・28場。寝室で臣下と話すエドワード懺悔王(上)と、王の死(下)[2]

西暦911年カロリング朝の君主シャルル3世(単純王)ヴァイキングの一団へ、指導者ロロの下でノルマンディーに入植することを認めた[3]。彼らの入植地は成功を収め[4][注釈 2]、また彼らは異教信仰を放棄してキリスト教に改宗し[6]、地元の住民と婚姻関係で結ばれて[7]、速やかに現地の文化に適応した。時が経つにつれて公国の境界は西側へ広がった[8]1002年イングランドエゼルレッド2世(無思慮王)ノルマンディー公リシャール2世の妹エマと結婚した[9][10]。彼らの息子エドワード懺悔王はノルマンディーでの亡命生活で長年を過ごし、そして1042年にイングランド王座を継いだ[11]。エドワードは自らの以前の身寄り先に大いに支援を頼り、ノルマン人の廷臣や兵士や聖職者を招き入れて、彼らを特に教会において権力的地位に任命したので、それがノルマン人のイングランド政治に対する強力な利害関係を形成することになった[12]。エドワードには子がおらず、手ごわいウェセックス伯ゴドウィンやその息子たち[13]と争いあい[14]、そして彼がまた、ノルマンディー公ギヨームのイングランド王座に対する野心を励ましていたこともありうる[15]
イングランドの継承危機バイユーのタペストリー」第30・31場。即位して王座に座るハロルドと、横に控える大司教スティガンド(英語版)(右隣の人物)[16]

1066年1月5日エドワード王の死[17][注釈 3]は明確な後継者を残しておらず、数名の競争者がイングランドの王権を主張した[19]。エドワードの直近の後継者はウェセックス伯ハロルド・ゴドウィンソンであり、イングランド貴族階級の最も富裕かつ勢力を備えた人物で、またエドワードの以前の競敵ゴドウィンの息子であった。ハロルドはイングランドの賢人評議会(witenagemot)で王に選出され、ヨーク大司教(英語版)エアルドレッド(英語版)から戴冠されたものの、ノルマン側の宣伝においては、この儀式は非正統的に選出されていたカンタベリー大司教スティガンド(英語版)による執行であるとの主張がなされた[19][20]。ハロルドはすぐさま、2名の強大な近隣統治者からの異議を受けた[21]ギヨーム公はエドワード王から王位を約束されており、またハロルドがそれに関して了解を誓っていたと主張した[22]ノルウェーハーラル3世(苛烈王)もまた後継を争った。王座に関する彼の主張は、自らの先代であるマグヌス1世(善王)と以前のイングランド王ハーザクヌートの間の合意に基づくもので、それによればいずれかが世継ぎなしで死んだ場合、もう一方はイングランドとノルウェーの双方を受け継ぐというのであった[23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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