そんな中、初優勝は突然やってきた。第11戦ハンガリーグランプリ、2番グリッドからスタートし、直後にフェリペ・マッサにかわされ3位に落ちた。41周目にパンクによりピットインしたハミルトンの前に出ると、首位マッサを追いかける立場となる。残り3周で20秒以上の差があり逆転は不可能に思われた68周目、突如マッサのエンジンがブロー。首位に立つと、そのままゴールし初優勝を果たした。
しかしその後の7戦は予選・決勝とも目立った活躍はなく、表彰台1回と2度の入賞という結果に終わった。
マシントラブルやセーフティカーによる後退など、不運により失ったと思われるレースもあるが、チームメイトがチャンピオンを獲得したのとは対照的に、芳しくない成績に終わった。
2009年2009年ドイツGP
2009年は困難な出だしとなった。この年のマシン、MP4-24は競争力があるとは言えず、開幕戦オーストラリアグランプリ、第2戦マレーシアグランプリともに予選14番手からスタートし、両レースとも良いスタートを決めたものの、2戦続けて0周リタイアに終わった。
その後も成績は向上せず、第8戦イギリスグランプリまでに入賞は1回にとどまり、2レースを得点圏外で完走した以外には5つのレースでリタイアに終わった。しかし、第9戦ドイツグランプリ以降は第14戦シンガポールグランプリまで6戦連続入賞を果たした。
シーズン終了後、ジェンソン・バトンのマクラーレン移籍が発表され、マクラーレンのシートを喪失したが、12月14日に新興チーム・ロータス・レーシングへの移籍(3年契約[4])が発表された。
2010年2010年マレーシアGP
2010年は新興チーム、ロータスに移籍。チームメイトはトヨタから移籍のヤルノ・トゥルーリと組む。既存チームとの差がかなり大きかったためチームメイトや他の新規チームとの争いが焦点のシーズンとなった。
そのシーズンを通して戦闘力のないマシンに悩まされたが、その中でも全19戦中完走13回、新規チーム内でのトップフィニッシュは10回を数え、新規チームのドライバーとしてただ一人既存チームを抑えての完走(2回)、2度の予選Q2進出と好成績を挙げた。決勝最高位は日本グランプリでの12位。予選での成績はチームメイトに対し8勝11敗と負け越したが、決勝では前に出ることが多く両者完走したレースで先行されたのはイギリスグランプリのみと、戦闘力に劣るマシンながらレース運びでもチームメイトを上回り昨年以上の存在感を見せた。またリタイアは6回あったが、そのうち自身のミスによるものはドイツグランプリでの1回のみであり、他はすべてマシントラブルによるものだった。
2011年2011年イタリアGP
前年度と同じロータスに残留。昨年を上回る3度の予選Q2進出を果たし、予選巧者として知られるチームメイトのトゥルーリ(第10戦のみチャンドック)に対し予選成績で19戦17勝という圧倒的なパフォーマンスを見せた。決勝においても終盤戦では1周あたり約0.5秒のタイムアップにつながるといわれるKERS非搭載のマシンながら、これを搭載するザウバー、ウィリアムズ、ルノーといった中段チームに迫るタイムを出し、既存チームを抑えてのフィニッシュは通算5回、特に第16戦韓国グランプリではザウバーを2台とも上回る順位で完走するなど好成績を挙げている。ドライバーズランキングでは自身最低の(最高位獲得回数の関係でトゥルーリにも遅れをとる)22位に終わったが、マシンそのものの戦闘力を考慮すれば、終盤戦のパフォーマンスは驚異的なものであり、自身もシーズン終了間際のブラジルグランプリウィークエンド中に「2011年はモータースポーツでのキャリアで最高のシーズン」と語っている[5]。
2012年2012年マレーシアGP
前年、前々年に続き同チームに残留。名称変更により「ケータハム」チームからの参戦となった。チームメイトはトゥルーリに代わりヴィタリー・ペトロフとなった。またチームとしてはじめてKERSも搭載された。前年終盤と比べると中段グループとの差は広がったものの、第4戦バーレーングランプリでQ2進出を果たし、第5戦スペイングランプリではピットストップのタイミングの関係で一時5番手まで浮上。自身もピットインするまでポジションを守った。第6戦モナコグランプリでは予選でQ2進出までわずか0.047秒差の18位を獲得、決勝でも1コーナーの混乱に乗じ、マシン性能は遥かに勝るマクラーレンのジェンソン・バトンの前に立つと、抜きにくいコース特性も相まって前に行かせず、71周目にバトンがスピン・リタイアするまで順位を譲らない走りを見せた。最終的にはザウバーのセルジオ・ペレスとの接触もあって順位を落としたが、同季最高の13位で完走した。
2013年2013年イタリアGP
ケータハムがペイドライバーを起用したためレースシートを失った。しかしシーズンが始まるとケータハムは経験あるドライバーの不在によって予想よりも厳しいシーズンになってしまったと考えてコバライネンを呼び戻し[6]、第4戦バーレーンGP前にリザーブ兼開発ドライバーとしてケータハムへ復帰した[7]。