プロ野球再編問題_(1949年)
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また、中日ドラゴンズ[注 4](以下中日)の親会社である中部日本新聞社も読売と同様の理由で毎日の加盟に反対し、大陽ロビンス[注 5](以下大陽)は毎日への球団売却という話が出たことで心証を悪くしていたため、読売・中日と同調した[14]

しかし、その他の5球団はこれまでと異なる反応を見せる。当時の読売新聞は大阪では売られておらず、必然的に読売新聞の持つプロ野球の宣伝機能は大阪では担えない、それに対して大阪毎日新聞が母体ともなっている毎日新聞であれば当然機能を満たせるという思惑があった[15]。その他にも南海ホークス[注 6](以下南海)は別所引き抜き事件に代表される巨人への反感、また大阪タイガース[注 7](以下阪神)には甲子園球場を使用する春の甲子園の主催であり事故の起こりやすい電鉄という業務から来る毎日への遠慮などそれぞれの事情から、関西私鉄3球団は毎日の加盟に同調し[16]、他2球団もそれぞれの思惑からそれに同調した。その思惑には、野球界の巨人中心主義への反発と言う色彩があった[17]
読売と毎日

2004年10月11日テレビ東京系列で放送されたドキュメント「ザ・真相?大事件検証スペシャル」によると、毎日の加盟申請の直前である1949年7月、当時の国鉄総裁・下山定則が失踪し、その後に常磐線の線路内で轢死体(れきしたい)となって発見された「下山事件」が発生した。警視庁は自殺・他殺両面からの調査を行ったが、日本を代表する三大新聞のうち、読売新聞朝日新聞は他殺と報じたのに対し、毎日新聞は自殺と報じた。このことが、毎日新聞と読売新聞の対立を深めたと言われている。
相次ぐ加盟申請

正力構想の本来のゆっくりとした拡大路線とは裏腹に、事態が表面化するとプロ野球への参加を狙っていた企業からの加盟申請が相次いだ。

当時の記録では、毎日新聞、近畿日本鉄道京都新聞熊谷組日本国有鉄道松竹大洋漁業名古屋鉄道西日本鉄道西日本新聞西武鉄道中国新聞星野組リッカーミシン[18]小田急電鉄[19]などの名前が挙がっており、このうち球団所有を計画していた京都新聞、熊谷組、中国新聞、星野組、リッカーミシン、小田急電鉄に関しては、球団所有が計画倒れに終わり、加盟は実現しなかった(ただし小田急電鉄では当時球団の所有計画が具体的な部分まで進んでおり、また同社はセントラル・リーグに加盟する方針を打ち出していたが、結局プロ野球球団の所有計画は中止された)。この時は計画倒れに終わった西武鉄道は、1979年に国土計画株式会社(後にプリンスホテルに吸収合併される)が既存の加盟球団(当時のクラウンライターライオンズ)を買収し、2009年にプリンスホテルから株式譲渡を受ける形で、パシフィック・リーグ加盟球団として所有が実現した。

また、朝日新聞や日本鋼管、富士フイルムや大昭和製紙、安田生命、日本生命、松坂屋の参入も噂された[20]

前述のように毎日新聞が9月21日に正式に加盟を申し込んだが、それに先んじる形で9月14日には近畿日本鉄道が、9月20日には西日本鉄道がそれぞれ申し込んでいる。その後も24日は林兼(大洋漁業)、28日には星野組と広島(中国新聞)が加盟を申し入れ[21]、ここにきて正力構想は完全に崩れることとなった。
連盟分裂・タイガースの二心

9月29日、新球団の加盟問題について連盟の最高顧問会議が開催され、次いで30日からは代表者会議が開かれた[22]。ここで巨人・中日・大陽は新規加盟に反対の立場を示したのに対し、阪神・阪急ブレーブス[注 8](以下阪急)・南海・東急フライヤーズ[注 9](以下東急)・大映スターズ[注 10](以下大映)は新規加盟に賛成をした。1946年に日本野球連盟で「これ以上球団は増やさない」という声明を発表していた[23]が、賛成する5球団は既に状況が違うと主張した。

この段階で賛成5球団をまとめ、多数決で強行突破しようとした正力は「2球団の参加を認め、1リーグ10球団を目指す」という盟約書をまとめ、この盟約書には阪神電気鉄道社長・野田誠三が署名している[24]。しかし、参加希望が相次いだためにそこから2球団(実質的には毎日以外の1球団)を選びこむのは難しく、両者の対立もエスカレートしていった結果、正力の1リーグ10球団という構想は難しいことが明らかになっていく[25]。そこで、加盟賛成派の5球団は、「2リーグへ分裂しても賛成5球団は分かれず、毎日と同じリーグへ一緒に参加する」との新たな協定を結ぶ。この協定にも野田が署名、捺印している[25]

この年、1949年11月12日より、第二次世界大戦後で初めて、アメリカ合衆国よりAAA野球チームであるサンフランシスコ・シールズが招かれることが決まっており、客を迎えるのに内部分裂しているのは失礼に当たるとして加盟問題を保留として一旦解散となった[23]

親善試合終了後、11月22日に開かれた代表者会議の途中で阪神はその動向を突如変える。阪神の予想通り2リーグへと分裂することになったが、ここで阪神は毎日のリーグに移らず巨人のリーグへ残ることを阪神球団代表・富樫興一が通告した[26]

この阪神の方針転換には諸説あり、阪神はその球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』の中で「二リーグ制に現実的に対処」と題し、1リーグ10球団に賛成した阪神ではあるが、10球団制が失敗に終わった後まで、行動をともにした約束はしていないと記し[27]、2リーグ分裂後についての誓約書の存在そのものを伏せている[28]。また球団史では言及が避けられているが、誓約書の存在を前提とした弁明も有り、そこでは阪神電鉄社長の野田が誓約し署名捺印した事実はある、しかしそれは親会社側が勝手にやったことであり、阪神球団はその約束に縛られるものではないとしている[29]。親会社は事前にそのような約束をしていたかもしれないが、球団としては2リーグ分裂後の対処に関して事前の取り決めがあったつもりはなく、2リーグが分裂すると決まってから改めて行動を検討し、富樫と巨人球団代表・四方田義茂とで提携の話を進めた結果巨人と同じリーグに残ることとなったとしている[27]

球団が親会社の意向を無視したという形になる上記の弁明は、球団側や親会社の阪神電鉄側にも疑問を持たれたが、後年大井廣介が富樫に尋ねたところ「あの時は阪神が中途で寝返りを打ったように見えるが、実ははじめから、親会社の重役会議で一、毎日を入れる、二、巨人とは離れないという線を決定していた。したがって巨人の怨みを買っても毎日を入れようとし、毎日の怒りを買っても巨人側を選んだ。世間から見れば二股膏薬のようにみえグラついて不見識のようだが、毎日を入れる、巨人と離れないというのが、最初からの最高方針だったのだ[30]」と説明したことを著書で明らかにしている[31]

他にも『プロ野球40年史』では11月22日以前、サンフランシスコ・シールズが来日中に「阪神が態度を一変」し5対3から4対4となったことが連盟の決裂の原因となったと記されている[23]。松木謙治郎は『新版 タイガースの生い立ち』の中で球団は表面的には毎日加盟に賛成しながら、球団としては巨人・阪神の看板試合を失いたくないという苦しい立場だったと書いている[32]
新球団と選手の引き抜き

パ・リーグは、同一のリーグに加盟する様に既に確約していた毎日・西鉄クリッパース[注 11](以下西鉄)・近鉄パールス[注 12](以下近鉄)、それに既存の阪急・南海・東急・大映の7球団で創立された。


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