プロ野球ニュース
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これについては福島自身が長嶋に対して生出演の依頼を行い、それに留まらずこの日のトップ項目にするように粘り強く頼み込み、キャスターの磯村尚徳が「やりましょう」と、「長嶋引退」のニュースをトップに据える決断を下した。この一連の取り組みにより、『ニュースセンター9時』がスポーツ情報の面でも一躍リードする存在となり、その分日本テレビやフジテレビをはじめ民放のスポーツニュースが充実していなかったことが浮き彫りとなった。

また、1970年代当時のプロ野球中継は日本テレビがいわば独占で後楽園球場で行われる巨人戦の試合を放送し、他の放送局では後楽園以外の球場で行われている試合を中継するというのが1つのパターンとなっていた。

そのような状況下で1975年の秋、鹿内信隆会長の命を受けてフジテレビ社内では「スポーツニュースのワイド化」の構想が練られていた。

当時フジテレビにおけるスポーツ制作の部署は「報道局スポーツ部」となっており、部内の上層部に野球に詳しい人材が多くいたが、その中の一人が、かつて地上波時代(第1期)の『プロ野球ニュース』のキャスターを務めた鳥居滋夫であった。アナウンサーをしていた頃は初期の競馬中継などスポーツ中継を担当していたが、この時はアナウンサーからスポーツ部の中心的存在となっていた。

社内では「プロ野球ニュース」の立ち上げに関連した会議がいくつか行われ、準備は進んでいた。1975年に編成部から報道局スポーツ部に「あの『プロ野球ニュース』を夜11時台に復活させたいと思うのだが……」と連絡が入り、早速、社内でプロジェクトチームが立ち上がった[2]

また、その際に

全試合(12球団)をまんべんなく扱うこと

通常の野球中継と同様に解説者を必ず付けること

最初に試合結果を明かさない(ネタバレをしない)こと

打球音や歓声など現場の音(いわゆる自然音)を活かすこと

球団担当記者を設けること

FNS系列と協力体制を結ぶこと

という番組における明確な方針が決められた。

特に、最大の問題は「キャスター」を誰にするのかであった。いろいろと名前が挙げられたが、平日には野球解説者の佐々木信也に、週末には、かつて文化放送でもごく数年、プロ野球中継実況を担当したことがある土居まさる[注 3] と決まった。特に佐々木の起用は相当な議論の末の決断であり、左記2名のほかに、高島忠夫やスポーツ評論家としても著名だったロイ・ジェームス、さらには裏番組『11PM』から大橋巨泉[注 4] をヘッドハンティングすることも検討された[3] ほどだった。

1976年2月17日に正式に『プロ野球ニュース』の放送が始まることが発表された[4]。席上で当時の広報副部長は、明言を避けながらも「打倒『11PM』!」と宣言していた[4]
地上波時代(第2期)

この節では、佐々木信也・みのもんた(1980年4月 - 1988年3月)がキャスターを務めた1976年 - 1988年3月を前期、フジテレビアナウンサーが主にキャスターを務めた1988年4月 - 2001年3月を後期に分ける。なお、前期から後期へ移り変わる間には1987年4月 - 9月に『FNNニュース工場』に、同年10月 - 1988年3月まで『FNN DATE LINE』に、1988年4月 - 1990年3月まで『ニュース最終版』にそれぞれ内包されている。

1987年3月まで『スポーツワイドショー』、1987年4月から『スポーツワイド』とサブタイトルが付けられていたが、報道番組と同じテロップを使い『制作著作 フジテレビ』のテロップは出さなかった(後継番組の『スポーツWAVE』『Grade-A』『すぽると!』『S-PARK』なども同様)[注 5]
前期(1976年 - 1988年3月)

そして、10年半のブランクを経て1976年に日本初の本格的スポーツニュースワイド番組『スポーツワイドショー プロ野球ニュース』として再スタートした。放送時間帯は主に23時台の『FNNニュース最終版』(1968年 - 1977年放送)→『FNNニュースレポート23:00』(平日)、『FNNニュースレポート23:30』(週末)(1977年 - 1987年放送)の終了後。ただし、1987年度は『FNNニュース工場』→『FNN Date Line』にコンプレックスする形(一部ネット局ではこの『プロ野球ニュース』のコーナーだけネットした放送局もある)で放送された。なお開始当初は平日に限り、翌朝再放送(日曜から木曜深夜の放送分のリピート)をした局があるほか、クロスネットや系列外の一部ではその再放送枠を初回放送扱いとした局もある(後述)

スタート当時の『プロ野球ニュース』の制作体制は最高責任者である「編集長」を筆頭に、「現場担当デスク」「局内担当デスク」と「各球団の担当記者」といわばピラミッド状に形成されていた。その他に「ディレクター」「アシスタント・ディレクター」など含めると総勢でおよそ25名の陣容で日々の番組制作に関わっていた。

前述の通り、初代の平日版キャスターは佐々木が務めた。佐々木は高橋大映大毎で4年間プレーした経験を元に足で稼ぐキャスターとして人気を博し、1988年3月の勇退まで12年間総合司会の地位を築いたが、その後、スーパーバイザーとして務めた。なお、局側は公式には番組を1976年開始、初代キャスターは佐々木としている。

週末に関しては初代から土居→はらたいら押阪忍みのもんたと1988年までに4人代わっている。中でも、はらは3か月担当したが、本業の漫画家との兼ね合いや、生放送でアドリブが利かず、特にある日の放送でCMまで40秒で伝えなくてはいけないところ、手元の原稿を25秒で読んでしまい、その後の15秒は自らの言葉でコメントをすることができなかったため、結局生放送への出演が難しくなったことから途中降板したとされている。また、みのの語りによる『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』は同番組の看板企画として定着し、ついには不定期ながら独立番組となるまでに至った。なお、みのは一時期日曜夕方の『サントリー スポーツ天国』担当のため、金曜日・土曜日にシフトしたこともある(この間、佐々木は日曜日 - 木曜日担当)。シーズンオフの一時期には月曜もみのが担当していた。

この番組では開始当初から以下の画期的な試みが行われた。

その日に行われた試合をすべて取り上げ、しかも現場に近い系列局のスタジオ(地方開催時も同様。系列局のない場合は、番販ネット局のスタジオか、近隣県の系列局と当該県のフジテレビの支局の協力を得て試合会場近くに特設の会場を設けて伝える[注 6]、もしくは、スタジオでの生放送もしくは完パケ撮って出しではなく、事前に試合会場で収録して放送するかのいずれかのパターンだった)から、それぞれ解説者とアナウンサーの2人が試合の映像を見ながらコメントを乗せていくスタイルを取った[5]。このスタイルは地上波時代第2期がスタートした1976年から2001年まで続いた。

番組スタート時の解説者は、土橋正幸別所毅彦豊田泰光土井淳と、名古屋の試合は河村保彦が、関西の試合は岡本伊三美が、広島の試合は森永勝也が担当した[5]。福岡は最初は専属解説者がおらず、土橋が出張して解説した[5]。しばらくして関根潤三らが解説に加わった[5]

当日のすべての試合を10分程度採りあげた(ただしごく初期の30分 - 45分番組時代は、その日の注目の試合を原則両リーグから1つずつ詳しく取り上げ、残りはフリップ、もしくは試合映像を簡単にまとめる程度だった[6])。当時はニュース用に映像を使う場合、3分以内なら無料、3分を超えるとその試合の主管球団に対し料金を支払わなければならないという規則があったが、それを番組側が資金を用意し球団側に支払ったため実現したものである。

また、当時のスポーツニュースは5分間程度[注 7] であったが、当番組はタイトルにもある「プロ野球」速報だけでなく、その他一般スポーツ各種目のニュース・トピックスも詳しく伝える30分(開始当初)の「スポーツワイドショー」を目指す[7] ことも発表された。

この試みは番組における方針(前述)と共にすぐさま視聴者の共感を得て、激励の声がフジテレビには殺到した[8]。当初見込んでいた「巨人びいきのテレビ中継」に不満を抱えていた他球団のファンや、当時はパ・リーグが脚光を浴びる場面はほぼ皆無だったため、その日行われた全ての試合を解説者付きで細かく見せる放送はパ・リーグの選手が特に喜んだ[5]。また、セ・リーグの各球団のファンも普段のパ・リーグの選手がプレーをする姿に新鮮味を感じていた。

番組開始当初はビデオテープが普及しておらず、フィルムで撮影したものを球場から運んで急ぎ現像室で、短時間でフィルムを編集して放送時間に間に合わせる作業は至難の業を極めていた[5]。その中で、スローモーション専用のフィルムカメラを他のスポーツニュースに先駆けて採用したことは注目された。


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