プロレタリア科学研究所
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

同誌はさらに、1931年10月より編集プロ科、発行白揚社として一本化され、1933年に廃刊されるまでドイツやソ連の国際情勢分析や哲学論争の紹介を続けた[6][7]

他の出版物として『プロレタリア科学研究[注釈 3]』『プロレタリア資料月報[注釈 4]』『われらの科学』『科学新聞』『科学開拓者』などがあり、社会科学のみならず自然科学語学芸術に至る多様な定期刊行物パンフレット、単行本の編集や発行をした[8]

1931年10月24日日本プロレタリア文化連盟(コップ)にその結成とともに加盟した。

1933年1月、日本プロレタリア科学同盟に改組された。

メンバーには永田広志早川二郎山室静平野謙松本正雄新島繁胡風、武藤丸楠、村山重忠、事務局員に林田茂雄らがいる。

一般に、プロ科は日本共産党支持者の集まりであり外廓団体である、と見られている。一方で、早いうちからプロ科に大衆団体化を求める声があり、1931年頃党の指導が強まる中でこの声が大きくなってゆき、左翼の科学運動団体化の構想を経て、結局、他の文化運動の分野と同様に、政治的主張を先鋭化した大衆団体と実質上区別できないものになっていく。こうして、プロ科がセクト化し大衆的支持も衰えていったことが指摘されている[9]。 
脚注
注釈^ 1929年9月30日付けで国際文化研究所の解散宣言。10月13日付けでプロレタリア科学研究所創立宣言。創立宣言の起草者は、三木清、蔵原蔵人、奈良正路。創立宣言は「プロレタリア科学研究者の統一と協力による相互発展、社会の動きに先きんずべき科学者の責任の自覚、ブルジョア科学の克服の必要等」を強調している。小山弘健『日本マルクス主義史』青木書店、1956年 p.5
^ 「研究を通じての啓蒙の雑誌」として刊行。
^ 1931年5月、「研究発表の機関」として創刊された
^ 「研究に必要な資料の紹介・批判の機関」として刊行。

出典^ 「プロレタリア科学研究所規約」第2條
^ 「プロレタリア科学研究所規約」第6條
^ 「プロレタリア科学研究所々員名簿」
^ 「プロレタリアかがくけんきゅうじょ【プロレタリア科学研究所】」、国史大辞典
^ 大原クロニカ 『社会・労働運動大年表』解説編《プロレタリア科学》[社]1929.10.13
^ 梅田俊英「プロレタリア科学」「マルクス主義の旗の下に」「日本資本主義発達史講座」、平凡社世界大百科事典
^ 渡辺悦次「コップ」「羽仁五郎」、平凡社世界大百科事典
^ 国立国会図書館蔵書検索申込システム
^ 『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版 梅田俊英著『社会運動と出版文化 ――近代日本における知的共同体の形成』評者 伊藤晃

関連項目

唯物論研究会










戦前の日本共産党
前史(源流諸団体)

売文社

労働運動社

アナ派


水曜会

在米日本人社会主義者団

日本社会主義同盟

コミンテルン日本支部準備会

暁民会(暁民共産党)

第一次共産党時代
(1921/22-24年)

党幹部

堺利彦

山川均

荒畑寒村

高津正道

近藤栄蔵

橋浦時雄

徳田球一

野坂参三

吉川守圀

浦田武雄

赤松克麿

綱領・テーゼ等

22年テーゼ

党大会

党創立大会

2回党大会

臨時党大会

事件

暁民共産党事件(結党前)

極東諸民族大会

第一次共産党検挙事件


「ビューロー」時代
(1924-26年)

綱領・テーゼ等

上海テーゼ

事件

小樽高商軍事教練事件


第二次共産党時代
(1926-29年)

党幹部

渡辺政之輔

佐野学

鍋山貞親

福本和夫

市川正一

三田村四郎

志賀義雄

佐野文夫

綱領・テーゼ等

27年テーゼ

党大会

3回党大会

事件

三・一五事件

四・一六事件

分派・転向者

労農派


「武装共産党」時代
(1929-30年)

党幹部

田中清玄

佐野博

前納善四郎

事件

(新)労農党解消問題

武装メーデー事件

分派・転向者

「解党派」

全協刷新同盟


「非常時共産党」時代
(1931-32年)

党幹部

風間丈吉

岩田義道

紺野与次郎

綱領・テーゼ等

31年政治テーゼ草案

32年テーゼ

講座派

事件

スパイMの指導部潜入


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef