プロレスラー
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アメリカではスポーツ選手のデニス・ロッドマンカール・マローンピート・ローズフロイド・メイウェザー・ジュニア、アクション俳優のミスター・Tなどがリングに上がったことがある。日本ではタレント滝沢秀明狂言師の和泉元彌着エログラビアアイドルインリン・オブ・ジョイトイなどが試合を行った。また、他の格闘技で活躍する選手、K-1アーネスト・ホーストや総合格闘技のマーク・コールマン宇野薫がリングに上がったことがある。特に近年はプロレス業界以外からのスポット参戦から、さらに練習を積んだうえで本格的なプロレスラーとして定着参戦したケースも多く、近年の例として愛川ゆず季赤井沙希荒井優希SKE48)などの例がある。
学生プロレスを経てプロレス団体に入門する
学生プロレスで活躍した後、プロレス団体に入門してデビューする者がいる。ある程度体ができており、基本的な動きを習得しているため、デビューも早くなるという利点がある。棚橋弘至が有名だがレイザーラモンHGばってん多摩川もこの範疇に入れることができる。かつては、学生プロレス出身者は、特にメジャー団体のプロレスラー達からは毛嫌いされていた。学生プロレス出身であったMEN'Sテイオー(当時みちのくプロレス)が、初めて新日本プロレスに出場した時には目の仇にされて、タッチ拒否や袋叩き等の目に遭っている。ただし、現在は棚橋の例にあるように、拒否反応は少ない。近年はガッツワールドプロレスリングのような学生プロレスOBを母体としたプロレス団体も存在する。

また、デビュー後も多くの試合で実戦経験を積むことが重要である。単発興行中心のプロモーションでデビューすると月に1試合前後しか出来ないが、巡業を行うプロレス団体では月に10試合以上となり、かつての大阪プロレスのように常設会場でほぼ毎日興行を行う団体に至っては月20試合以上を消化する場合もあった。また、インディー団体を中心に生活と試合経験のため、他団体に出場するプロレスラーは多い。
大相撲力士の転向
日本特有の事情として、同じ格闘技・スポーツである大相撲力士が廃業後に入門し、転向する例がかつては数多くあった。元々日本プロレスを創設した力道山は元大相撲・関脇であり、日本プロレスとして基礎を築いてからは角界からの転向者が選手の多くを占めたこともあり、プロレス界に大相撲の習慣や隠語が多く導入されている。力道山以外に代表される人物として豊登(元前頭)、芳の里淳三(元前頭)、大熊元司(元幕下)、松岡巌鉄(元幕下)、ラッシャー木村(元幕下)、グレート小鹿(元三段目)、上田馬之助(元序二段)など、日本プロレスに数多く入門している。日本プロレス崩壊後も天龍源一郎(元前頭)、石川敬士(元前頭)、安田忠夫(元小結)、力皇猛(元前頭)、田上明(元十両)などと関取経験者からの転向例も続いた。最高位であった横綱からの転向例も散見され、東富士欽壹(第40代)、輪島大士(第54代)、北尾光司(双羽黒、第60代)、曙太郎(第64代)の4例あるが、シングル王座を獲得した曙を除いて、いずれも選手としての活動は短期間に終わり、プロレスラーとしては大成できなかった。近年は総合格闘技への進出が目立つようになり、力士からのプロレス転向例は減少している。
共通ライセンス構想

日本では、2009年3月に新日本プロレス(菅林直樹社長、山本小鉄相談役)、全日本プロレス(内田雅之取締役)、プロレスリング・ノア(仲田龍取締役)の3団体の代表による会談が行われて、3団体の共通ライセンスを発行することで合意したことが東京スポーツ紙上で報じられた[2]。背景には、2008年10月にインディー団体の所属プロレスラーが練習中に死亡する事故が起きたことなどがあるとのことで、3団体の主催試合に出場する外国人選手や他団体所属・フリーの選手については各プロレス団体の判断で、その都度ライセンスを発行する方針。また「他団体に干渉するものではない」としているが、門戸は広く開放し、他団体が同ライセンスを導入したい場合には積極的に受け入れる方針とのこと。

6月13日に三沢光晴が試合中の事故で急死したことを受けて、7月に開かれた3団体のライセンス委員会では「1年毎に医師の診断書の提出を義務付ける」方針を決定。11月にもライセンス発行を開始したいという方針が明らかになった[3]

2010年に入り具体的なライセンスの詳細を3団体で詰めた結果、三沢の一周忌に当たる同年6月13日に3団体合同でライセンス発行開始の記者会見を行う予定だったが、その前日になり全日本が記者会見をキャンセルし共通ライセンスからの離脱を決定(なお離脱の理由は明らかにされていない)。残る新日本プロレス、プロレスリング・ノアの2団体のみで共通ライセンスを発行する案も浮上したものの、結局同構想は頓挫することとなった[4]
契約形態

大半のプロレスラーはプロレス団体と呼ばれる興行会社の「所属」となっている。取締役、従業員といった正社員や契約社員を含め専属契約を結んでいる者の場合は「所属」、それ以外は本来、フリーランスとなるが、ただ単にその団体へ出場機会が多いだけで「所属」と呼ばれている場合もある。特に日本の場合厳密な契約書は存在せず、口約束、信用のみで契約を結ぶこともある。スタン・ハンセン全日本プロレスとの契約は社長のジャイアント馬場との口約束のみで契約金を受け取っていたと語っている。

アメリカのWWEは厳密な契約を結び、トップクラスのスーパースターは契約金以外にも滞在するホテルや航空便での座席に高いクラスを保証されるなどしている。

契約期間は年間契約での更新制、興行ごとなど様々である。団体と契約すると、肖像権や商標権などの束縛が発生することが多い(メジャー団体の場合は、放映権を持つ放送局との権利関係も存在する)。退団後、リングネームや技の名前が商標登録されているために使用できず、リングネームや技の名前を変えることがある。

団体の経営方針との相違や活動の幅を広げるため、特定の団体に所属しないフリーのプロレスラーも多く存在する。フリーではあっても個人事務所を持ち独自で興行を行う者もいる。最近では飯伏幸太紫雷美央のように複数の団体と所属契約を結ぶプロレスラーも現れている。

メジャー団体と呼ばれる大規模団体に所属するか常連としてリングに上がっている者を除けば、大半の者はプロレスラーでの報酬のみでは生活が出来ないため、アルバイトなど他の仕事で生計を支えており、収入実態だけを見ればプロレスラーがむしろ事実上の副業という状態の者も多い。かつて折原昌夫産経新聞のグループ会社のウェブサイトで、「無名選手のファイトマネーは1試合500円である」と述べていた。DDTを主宰する高木三四郎はテレビ番組で、高木が他団体へ出場する場合のファイトマネーは1試合で5?10万円で、DDTの若手のギャラは1試合1万円と述べた。その他、レスラーにもよるが飲食店などの店舗を経営したり芸能活動をしていることもある。2014年には大日本プロレス東京スポーツの求人サイトで新人募集を行ったが、その際に給料が「(デビューまでは)全て引かれた上で月額3万円、デビューすると8万円」などと明記されていたためネット上で話題となった[5]

なお、高木がデビューしたのは横浜市内の複数の飲食店及び屋台経営者が共同出資する形で常設会場を経営していた屋台村プロレス(正式名称はプロレス屋台村15番街ヨンドン[6])であるが、高木が屋台村プロレスに所属していた時の1試合の報酬は金銭のギャラ及び「飲食店から提供される夜食」であったという。飲食店や屋台の来客への余興として行われる興行であったことから、客入りが良かった時期は焼肉が食べ放題であったが、客入りが悪くなると金銭のギャラが無くなった上に食事も中華の一品料理、果てはうどん1杯まで極端にメニューが劣化していったという[7]
ショーマンシップハルク・ホーガンのパフォーマンス。観客に勝利をアピールするザ・ロック

プロレスラーにとって、ショーマンシップは重要であり、また要求されるスキルの一つである。だが、特に日本においては武道において真剣勝負を尊ぶ思想の影響から、プロレスもプロスポーツの一つとして真剣勝負であるはずだという間違った認識を持つ者が多く、ショーマンシップが全面に押し出されたプロレスなどのショースポーツについては根強い嫌悪感が存在しており、昭和の頃から『プロレス八百長論』というものが主に他の格闘技のファンである識者から出され、これを根拠としたプロレスの本質からすると的外れ以外の何物でもないバッシングが幾度となく繰り返されてきた状況があった。

現代ではアメリカのWWEが株式上場の際、事業内容を公開するにあたってシナリオ(プロレス用語ブックアングルなどと呼ばれる)の存在を公式に認めたことや、数々の暴露本によって、リングの上で行われている試合はエンターテインメント性に満ちたショーであるという前提が、一般にも認知されてきている。


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