プロテスタント
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プロテスタントという総称は、その担い手達がカトリック教会に抗議(: pr?test?r?、プローテスターリー)したことに由来する[5]。「プロテスタント」は該当する諸教派の総称であって、プロテスタント全体を統括するような教団連合組織は存在しない。中世における諸教派の形成時、国教化されたカトリック教会は宗教の自由を認めなかったため、教皇中心主義に抗議し内部分裂したプロテスタント諸教派に対しても、異端としての対応を取ることとなった。そのため、多くの教派は、カトリック教会の対応に対して抗争や戦争の手段を用いて、新たな体制的教会を構築した。また、新たな正統の基準を確立したプロテスタント諸教会は、その公的な信仰の基準に反するものを異端視した[6][注釈 2]

教義の中心である使徒信条は、母体となったカトリック教会とほぼ同じに設定されている。それに加えて独自の原則として三大原理[注釈 3]も設定されている。異教や異端であるかどうかの判別の基準としては、聖書全体を神よりの霊感を受けて書かれた神の言葉として受け止めることを前提として、三位一体の教義が確立していること、イエスの復活信仰が確立していること、ナザレのイエスの死を通しての贖罪信仰が確立していること、主イエスが旧約のキリストであるとの信仰が確立していること等が規定されている。
歴史

1517年以降、マルティン・ルターらによりカトリック教会の改革を求める宗教改革運動が起こされた。

1524年、ドイツ農民の不満を背景に、急進派トマス・ミュンツァー率いる武装農民が蜂起し、これに対してルター派の諸侯らが激しく衝突、多くの犠牲が生じたいわゆるドイツ農民戦争が勃発した。1529年にルター派の諸侯や都市が神聖ローマ帝国皇帝カール5世に対して宗教改革を求める「抗議書(Protestatio, プロテスタティオ)」を送った。そのためこの派は「抗議者(プロテスタント)」と呼ばれるようになった。

ルターらは洗礼聖餐以外の教会の諸秘跡を排し、聖書に立ち返る福音主義を唱え始め、また西方教会では、それまでほとんどラテン語でのみ行われていた典礼聖書ドイツ語化するなど、著しい改革を行った。このため次第にルター派は北ドイツからドイツ全体へ広まり、その信者は増加していった。ルターは信仰義認という教理を提唱した者としてよく知られている。ルター派の特に信仰義認は、カトリック教会トリエント公会議などにより排斥された。その結果として別個の教派を築くこととなった。

宗教抗争は政治権力抗争とも絡み、ドイツ地域の内乱状態は30年間続いた。内乱終結のアウクスブルクの和議1555年)により、プロテスタントもカトリック教会と同様に信教の自由の地位を保証されることとなる。ルター派は北方に広まり、デンマークスウェーデンノルウェーで国教となった。

当時の欧州大陸はスペイン領であったネーデルラント17州アントワープが経済・貿易の中心地となっていたが、1566年にはフランドル( 現在のベネルクス3国及びフランス北部)でもプロテスタントの宗教改革が始まり、ネーデルラントのスペイン・ハプスブルク家からの独立を求める八十年戦争及びこれに伴う三十年戦争が戦われた[注釈 4]

スイスの宗教改革運動は、ドイツ改革とほぼ同時期に起こっていた。カトリック司祭のフルドリッヒ・ツヴィングリは「聖書のみ」、「信仰のみ」という教理を展開し、彼の弟子たちから幼児洗礼を否定し再洗礼を認めるアナバプテスト派が生じ、後に改革派教会からも排斥されることになる(ウェストミンスター教会会議)。また、ツヴィングリは、聖餐論においてルター派と対立することになる。

内乱状態の後を受けて、ジャン・カルヴァンが登場し、彼はツヴィングリを受け継いでスイスにおける宗教改革の指導者となる。カルヴァンは新しい教会の組織制度として長老制を提唱した。大陸におけるカルヴァン派の教会が改革派教会と呼ばれ、ジョン・ノックススコットランドを経由した英国系のカルヴァン派の教会が長老派教会(その後アメリカへと進出)と呼ばれる。カルヴァンは二重予定説を提唱し、カルヴァン派で受け継がれ、カルヴァン主義とも呼ばれる。予定説も、ルター派と同じくトリエント公会議で排斥の対象となる。カルヴァン派は、混乱から社会を救うため、宗教政治教会国家を明確に機能区分することを提唱する。また一般市民の信仰生活に対して、世俗職業を天職(神の召命)とみなして励むこと、生活は質素で禁欲的であること等を説き、これが勃興期の資本主義の精神と適合したといわれる。カルヴァン主義は、西方のフランスオランダイギリスアメリカへ広がった。後に、オランダ改革派から、このカルヴァン主義からの思想が非聖書的であると唱え、カルヴァン主義の予定説に反対し、ヤーコブス・アルミニウスとその後継者によってレモンストラント派(アルミニウス派)が現れる。1610年改革派はドルト会議にて、アルミニウス派を異端として排斥する。このアルミニウス派の思想は、後にメノナイト派ジェネラル・バプテスト派普遍救済主義バプテスト)、メソジストのウェスレー派などに継承されることになる。なお現在、各教団の神学の基本思想としてカルヴァンかアルミニウスかの2極に分かれる傾向がある。

16世紀前半、北ヨーロッパでの宗教改革とほぼ同時期にイングランド王国でも宗教改革が始まり、カトリックから分離・独立したイングランド国教会が成立した。ただ、この改革は国王ヘンリー8世の離婚問題に端を発する政治的なものであり、教会組織がローマ教皇を否定し、国王を首長と認めさせることに目的があった(国王至上法)。このため、ルターやカルヴァンの系譜とは異なるが、カトリックの権威を否定した宗教改革としてイングランド国教会もプロテスタントと呼ばれる。この宗教改革はその後、エリザベス1世に引き継がれ、プロテスタント教会として確立される。しかし、動機が政治的なものゆえに、国教会の教義や儀礼はほぼカトリックを踏襲したものになっており、ルター派やカルヴァン派が否定した監督制も残っていた。一方、隣国スコットランド王国では元イングランド国教会の牧師で、大陸で改革派教会から学びを受けたジョン・ノックスによって宗教改革が主導され、カルヴァン主義に基づく長老制を敷いたスコットランド国教会が確立された。

16世紀後半のエリザベス女王時代に、大陸の改革派教会と同じ水準の改革を求めて、イングランドに現れたのがピューリタン(清教徒)と総称される様々な改革派である。ピューリタンでまず力を持ったのが、大陸の改革派教会やスコットランド国教会を模範としてイングランド国教会を内部から改革しようとしたカルヴァン主義の長老派である。それとは別に国教会と袂を分かち、独自の教会組織を作ろうとしたロバート・ブラウンに始まる分離派(ブラウン派)も現れる。分離派はピューリタンの中では少数派であったがアメリカ大陸に移民し、ニューイングランドの形成に影響力を持つ(ピルグリム・ファーザーズ)。チャールズ1世の時代に急進したのが会衆制を望んだ独立派(会衆派)であり、彼らは分離派の流れを汲みつつも、イングランド内戦(清教徒革命)を経て、国政の実権を握り、国教会改革を試みた。これ以外にも教義の違いなどから、イングランドのプロテスタントは多様に分派し、現在にも残るものとしては、国教会系としては各聖公会やメソジスト派、分離派ではバプテスト派、また、ピューリタン以外にもクエーカー派などが誕生する。


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