プロスペル・メリメ
[Wikipedia|▼Menu]
メリメは『ジャックリーの乱―-封建時代の劇』とそれに続く、1828年に『カルバハル家の人びと』、翌29年に『シャルル九世治世年代記』を匿名で発表している。以後は短篇小説、中篇小説、歴史的逸話、考古学の紹介文、文学研究を自分の名前で発表するようになる。これらはまず『パリ評論』『両世界評論』に相次ぎ掲載され、それから個別の題名もしくは一括した題名の一巻本として刊行された。以下はほぼその順番での記載。

『タマンゴ』

『堡塁奪取』

『イールのヴィーナス』

『煉獄の魂』

シャルル11世の幻想』

『トレドの真珠』

『バックギャモンの勝負』

『エトルリアの壺』

『二重の誤解』

『アルセーヌ・ギヨ』

『マテオ・ファルコーネ』

『コロンバ』(1830年 - 1840年) コルシカ島が舞台

カルメン』(1847年)- 日本語訳書は多数、リンク先参照どれもが波乱と興味深さと独創に満ちたこれらの物語は、メリメが決定的に獲得していた控え目で洗練された文体によって特に洗練された読者層に喜ばれた。
単行本として刊行された『旅行記』や『考古学的視察の報告』の他にも歴史関係では以下の著作があり、一部が訳・出版された。

ミシェル・セルバンテスの生涯と作品紹介』(1828年

『階級戦争試論』(1841年

カスティーリャ王ドン・ペドロ一世伝』(1843年

偽のドミトリー ロシア史の逸話』(1852年

『歴史・文学論集』(1855年)の一冊に12のさまざまな習作と、『紹介文』『序文』『序説』が収められている。その中でも特に

『二つの遺産』とそれに続く『総監』『探検家の登場』(1853年)

『マリノ・ブレトの短篇と詩篇・序説』(1855年)など。

また単行本化されなかった雑誌記事が若干ある他、死後に出た文集『未知の女への書簡集』(1873年)は好奇心の大きな的となり、続けて『もう一人の未知の女への書簡集』(1875年)が出た。

『メリメ全集』(杉捷夫江口清ほか訳、河出書房新社、1977?79年)が出版[2]
 第1・2・3巻は小説、第4・5巻は史伝、第6巻は「人物評論・美術評論・紀行文」
メリメ・データベース

1834年から、プロスペル・メリメはフランス領土全体の傑出した建造物の調査に着手した。これはアンドレ・マルローの打ち出した「フランスの芸術的な歴史的建造物や資産の総合目録」を1世紀も先取りするものであった。

彼の栄誉を讃え記念し、フランス文化省は歴史的建造物と、傑出した建築遺産を調査する「メリメ・データベース」を創設した。
作風、批評

同時期のロマン派の作家同様、メリメは異国への憧れや情熱への志向を抱いていた[1]。しかし、彼らとは異なり、懐疑的かつ厭世的なメリメは作品の中で過剰な感情の露出を抑え、皮肉ともいえる客観的な著述を行っていた[1]。そのため、文学史上においてメリメはロマン主義の作家としてよりも、早く生まれた写実主義者として見なされている[1]

批評家シャルル・デュボス(1882年 - 1939年)はメリメの「会話の中で消えて行ってしまうような実に取るに足りない言葉、ある種の良い意味での平凡さの筆写」における自然さを比類のないものであると評している。ヴィクトル・ユーゴーは詩集『竪琴の音をつくして』で、「小丘一つなく、芝もまばらな野原/私は彼方に見るのを喜ぶ/煙が立ち昇る一群の低い屋根屋根/メリメのように平凡な風景を」と引用した。
脚注^ a b c d e f g h バート「メリメ」『世界伝記大事典 世界編』11巻、165-166頁
^ なお当初は全7巻予定だったが、6巻目まで刊行だった。未刊行の第7巻は「書簡・雑文」

参考文献

B.F.バート「メリメ」『世界伝記大事典 世界編』11巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1981年6月)

翻訳元参考文献

Charlotte Fruton, Merimee et la medecine, These de doctorat en medecine, 1938

Pierre Trahard, Prosper Merimee et l’art de la nouvelle. Paris, Nizet, 1952

Pierre Trahard, La Jeunesse de Prosper Merimee (1803-1834), Paris, E. Champion, 1925

Pierre Trahard, Prosper Merimee de 1834 a 1853, Paris, H. Champion, 1928

Pierre Trahard, La Vieillesse de Prosper Merimee (1854-1870), Paris, H. Champion, 1930

関連項目

ウジェニー・ド・モンティジョ - メリメはウジェニーの母マヌエラのサロンに出入りし、一時期はマヌエラの愛人であった。後年メリメが元老院議員になれたのも、ウジェニーやマヌエラとの付き合いがあったからである。メリメが『カルメン』を書くきっかけとなったのもマヌエラで、ある晩サロンで話題になった盗賊の話が作品の元となった。

外部リンク

以下は全てフランス語のサイト。

アカデミー・フランセーズの略歴

フランス文化省のメリメのページ

Culture.frの「メリメと記念建造物遺産」


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef