だが、2004年に入ってからはマンネリ化やNHK自体の不祥事が相次いで発覚したことなどにより視聴率が頭打ちになり始める。当番組でも2004年に『プロジェクトX21展』と称した特別展を開催した際、協賛企業から最高で3150万円の協賛金を集めていたことが衆議院総務委員会で取り上げられた他[10]、2005年5月10日放送分においてやらせが行われていたことが判明。2005年9月22日、同年12月での番組の終了が発表された。通常4月の改編期に一斉に改変を行うNHKにおいて、それを待たずの終了は打ち切りを示唆するものだった。後継番組は翌年1月から放送を開始した『プロフェッショナル 仕事の流儀』である。終了後、2024年に「新」シリーズが開始されるまでも本番組のパロディがNHKも含めて頻繁に制作されており、現在も知名度の高い番組となっていた。
打ち切りに際して、最終回では中島みゆきがスタジオに出演し、NHKの歌番組でそれまで歌われなかったエンディングテーマの「ヘッドライト・テールライト」を初披露した。
ビデオ・DVDの売上は80万本以上を記録した[11]。一方で、全日本電機・電子・情報関連産業労働組合連合会は、番組に登場する多くの技術者は「現役を退いた後の“遅すぎる評価”」を受けただけだとして、否定的であった[12]。 本番組の演出パターンはその後、テレビ番組などで広く用いられており、テレビドキュメンタリーの一つの典型になっている。 冒頭。古い映像などをテーマソングが流れる中、短いカットで写す。細い明朝体でキーワードが表示される。 番組序盤。田口トモロヲの特徴のある淡々としたナレーションで、プロジェクトを成し遂げようとする主人公(複数)の境遇が描かれる。再現ドラマ(俳優はセリフを喋らない)が挿入されることもある。 番組中盤。プロジェクトはいよいよ佳境に入るが、困難が彼ら・彼女らを襲う。それを克服する過程が描かれる。このあたりでスタジオに放映当時に存命の主人公もしくは主人公の近縁者がゲストとして登場[注釈 2]し、司会からインタビューを受けて当時を回想する。 番組終盤。プロジェクトは成し遂げられる。ドキュメンタリー映像が終わった後でスタジオに戻り、主人公の顔が大写しとなり、司会から労いの言葉をかけられる。プロジェクトの成果物がスタジオに運ばれ、主人公が感慨深げにそれを手に取る。 エンディング。成功した主人公達のその後の栄光の人生が簡単に描かれ、テーマソングが流れる中終わる。 大半はハッピーエンドとなるが、日本初の生体肝移植プロジェクトを取り上げた「裕弥ちゃん1歳・輝け命?日本初・親から子への肝臓移植?」[注釈 3]のように、ハッピーエンドとはならなかった回もある。 なお、プロジェクト当時の内容をナレーション形式で解説しているにも拘わらず、その場面において若い俳優を起用しての再現映像ではなく、プロジェクトの主人公本人が年老いた現在(放送当時)の姿で直接登場し、職場で仕事をしているシーンが多くの放送回で出てくるが、取り上げている題材が古い時代のプロジェクトであるほど必然的にプロジェクト参加当時の容姿と現在の容姿が釣り合わなくなる。遵って、この「プロジェクトの主人公本人が(年老いた現在の姿で)仕事をしているシーン」は実際に仕事をしているわけではなく、仕事をしているように見せるための単なる演技である[注釈 4]。 プロジェクトに関わった人物のうち、特に筆頭でプロジェクトに関わっていた人物、その補佐的役割を務めた人物、プロジェクトを陰から支えた人物、プロジェクトに影響を受けた人物などがゲストとして1?3名ほど招待されていた[注釈 5]。プロジェクトに関わった人物が既に亡くなっている場合や、高齢で出演できない場合は、その弟子などが代わりにゲスト出演していた。なお、初期の頃はプロジェクト関係者ではなく、なかにし礼や松坂慶子などの著名人が解説やコメンテーター的な位置付けでゲスト出演していた。
演出パターン
ゲスト
番組に対する主な矛盾・抗議など
2000年4月18日放送の「ガンを探し出せ 完全国産・胃カメラ開発」では、「胃カメラは日本で初めて開発され、胃壁が撮影された」という話になっているが、胃カメラは日本での開発より約50年前の1898年にドイツで発明され胃壁の撮影が行われている[13]。その後もいくつかの胃カメラが開発されており、間違った内容が放送された。胃カメラ開発の経緯や機器の説明などにも間違いや疑問を有する箇所が複数あり、抗議が行われた。書籍版では訂正が一部行われたが、間違いの解消には至らなかった。
2000年11月28日放送の「よみがえれ日本海」では、ナホトカ号重油流出事故に際して神戸から来た災害ボランティアが、発生地・福井県の青年会議所を指導して「三国重油災害ボランティアセンター」を作ったことになっているが、実際には当初それぞれが受け入れ窓口を作り、話し合いで一本化したものであった[14]。
2001年6月19日放送の「父と息子 執念燃ゆ 大辞典」は1955年に『広辞苑』を岩波書店から刊行した新村出・猛親子に焦点を当てた内容だった。しかし、実際には『広辞苑』が同じ新村出を編者として1935年に博文館から刊行された『辞苑』の改訂版であったことに一切触れず、新村親子の努力で『広辞苑』がいきなり出版されたかのような内容になっていた。同社の後身である博文館新社から抗議を受けたため、書籍版では博文館および『辞苑』について加筆を行った[15][16]。