プロジェクト‐ノート:2ちゃんねる
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もし、著作物として成立するならば、著作権侵害を避けつつアスキーアートを掲載するのは一般的に困難であると思います。--全中裏 2007年2月13日 (火) 16:09 (UTC)[返信]

いくつか見てみましたが、あのような記事は「独自の調査」には当たらないのでしょうか?こちらを読むと、「一次資料のみに基づく調査」に当たりそうな気がするのですが。もしそうなら、二次資料(書籍に取り上げられたなどの情報)が揃っているものだけ残すという選択はどうでしょうか?--bcjp 2007年2月13日 (火) 17:38 (UTC)[返信]よく「独自の調査」に関しては誤解されがちだが、情報源がインターネットではいけないというわけではないよ。この2chAA群が独自の研究かどうかということは別として。--ラッキースター・キッド ◆Luck.w.AEQ 2007年2月13日 (火) 19:24 (UTC)[返信]ラッキースター・キッド ◆Luck.w.AEQさんへ。その点は誤解していません。私の書き方が悪くて誤解させてしまいすみません。「書籍やその他の信頼できるメディアに取り上げられたなどの情報」と読み替えて下さい。ご指摘ありがとうございます。--bcjp 2007年2月13日 (火) 20:06 (UTC)[返信]「2ちゃんねる辞典」など、書籍媒体でのソースが確認できれば、存続も可能かもしれませんが、書籍媒体での確認がなく、無名人物によるインターネット配信でしか確認できないAAは削除対象だと思います。-経済準学士 2007年2月13日 (火) 19:27 (UTC)[返信]AAに限ったことではありませんが、紙媒体では無く、質的にも「紙の百科事典」とは異なるウィキペディアが、書籍媒体ソースに拘る理由が判りません。--???.???.???.??? 2007年2月13日 (火) 20:08 (UTC)[返信]おそらく、紙媒体に比べてインターネットの性質上『責任』という話に弱いからだと思います。例えば企業運営のサービスコンテンツであれば、そのコンテンツの内容に関する責任は、企業にあるので紙媒体に拘る必要はありません。ですが著名者でない個人のブログ(≠著名なブログ)等は紙媒体に比べ著しく内容に責任が持てないので出典として用いられないのでしょう。個人的には「事実」としてページを作る要素にはなりえますが(この作る作らないの事実は検索該当量が判断基準にしてもよいでしょう)「出典」として用いることのできない情報だと思います。そして出典の無いページは削除しても問題ありません。--Chiether 2007年2月14日 (水) 01:30 (UTC)[返信]それはウィキペディア自体に対しても含まれる言葉ですよね。「ウィキペディアは紙媒体の出典を以って著されている」と言っても、ウィキペディアが「インターネット上のサービスコンテンツ」である以上、詭弁に過ぎなくなります。私は、こうした自己矛盾した理屈はナンセンスであると考えます。--???.???.???.??? 2007年2月14日 (水) 04:01 (UTC)[返信]ええ。事実そうだと思っています。ですが自己矛盾であるとは思いません。『ウィキペディアは責任ある出典を求めている。よりよい出典があれば置き換える。よりよい出典には責任ある(査読なり何なりされた)出典も含まれる』ということと『ウィキペディアという非営利団体(財団)のサービスコンテンツがあり、このサービスコンテンツは、責任ある出典として不適切であるという指摘がある(事実、ジンボ自身が重要な事にウィキペディアを引用しないよう表明しています)』ということは矛盾しません。ですがより良くなろうというプロジェクトの目的に沿って、出典や中立性を柱に据えたり、引用する側にも版の特定を求めたりしているのでしょう。--Chiether 2007年2月14日 (水) 07:12 (UTC)[返信]私には「出典の出典は何の出典だ」というか、タマゴとニワトリというか、そのような類のものにしか感じられません。ウィキペディアが聖域であるという考え方は、いびつでしょう。ネット上が発祥でありそれが書籍に掲載されるのと、書籍に掲載されてネットで流布するものと、なぜにそのような意識の差があるのか、全く以って理解できません。--???.???.???.??? 2007年2月14日 (水) 09:59 (UTC)[返信]おそらく、あくまでも私が今感じていることですがウィキペディアに求めるものが「結果(記事内容)」なのか「過程(プロジェクト)」なのかの違いかもしれません。結果を主とした場合、出典Aを元にした記事Bは、出典Aという存在の事実しか保証せず(典拠と成りうるかどうかは記事Bの内容に依存します)、記事Bの内容の信頼性は出典Aによって賄われるものではありません。ですが過程を主とすると、例えば出典Aを元にした記事Bを引用し、調査結果等をぶつけて反論する記事Cは現実的に成り立ちますし、その結果が信頼に値するのであれば記事Bの後版に反映されるかもしれません。ウィキペディアの記事を引用するにあたって信頼性があるかないかは、引用者が判断するべきことであり、過程を求めるのであれば、引用者が引用するに値する記事であるように向上心をもってあたるのがウィキペディアの過程であると私は考えて編集にあたっています。--Chiether 2007年2月14日 (水) 12:28 (UTC)[返信]「おそらく?かもしれません」という事は、Chietherさんご自身も判らぬ何物かに囚われて、その何物ともつかぬ物を理由にされているということになります。Chietherさんご自身の中ではそれで納得されていようと一向に構いませんが、私を含めた「他の人」に説明する根拠としてはまったくのナンセンスでしょう。--???.???.???.??? 2007年2月14日 (水) 15:34 (UTC)[返信]いいえ、私自身は「それが一因の可能性がある」と示唆しているに過ぎず、それぞれの違いも述べています。ですから「自身も分からぬ何物か」ではありません。懐疑的に捉えられてしまうような発言であったことは反省します。説明する根拠たるかどうかという話であれば、そもそも誰がそれに当てはまるのかといった事は考えても居ませんし、その違いが全てを紐解くものであるとも現段階では考えても居ません。--Chiether 2007年2月14日 (水) 18:27 (UTC)[返信]話を少しもどします、ウィキペディアが情報源を信用するかどうか。つまり出典として適切かどうかの判断基準として「責任あること」「査読されていること」などの基準が設けられています。書籍が必ず出典として相応しいわけではありません。単なる紹介だけに留まる書籍であれば『そういうものがある』というだけに過ぎず、記事項目があってもよいという判断基準になりますが、出典に値しないでしょう。逆に、例えばですが「どういういきさつで、そのアスキーアートが生まれたか」などまで追及しているのであれば書籍媒体だろうがネット媒体だろうが出典として相応しいものです。ただしインターネット上の情報通信が『責任を明らかにすることまで見て作られていない』という問題があるので『紙媒体に拘る』というよりも『紙媒体の方が優れている』というところだと思います。単純判断で図式にすると『紙媒体の良い出典=>電子媒体の良い出典>配信媒体の良い出典>紙媒体のずさんな出典=電子媒体の杜撰な出典=>配信媒体のずさんな出典』というのが私の価値基準になっています。--Chiether
第3節

個人的には「AA記事はあっても良い」くらいの気持ちです。積極的に存続とも削除とも思いません。精力的にAA関連項目を立てる気もしなければ、排除すべきと東奔西走するほどのものにも感じられない。なお、ラッキースター・キッド ◆Luck.w.AEQさんの仰る「楽だから全削除」という理由は削除する側の都合過ぎる気がするので賛同しかねます。いずれにせよ、AAについては著作権的な概念なども含めて議論すべき部分も大いにあると考えます。--???.???.???.??? 2007年2月13日 (火) 19:42 (UTC)[返信]

作られた背景やAAに因んだストーリーがなく、ただAAとその説明、出典のスレッドのみのページは削除または統合すべきでしょう。--Alljal 2007年2月13日 (火) 19:49 (UTC)[返信]

論点は3つ有ります。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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