プロ選手が所属クラブを移籍することができるのは、原則としてシーズン終了から翌シーズンの開幕までの間(ただし最大12週間)[5]と、シーズン中盤に設けられる特定の時期(最大4週間)[5]のみと定められている[6]。この期間はいわゆる「移籍市場」と呼ばれる。また移籍の際にはいわゆる移籍金が発生する場合がある。なお18歳未満の選手が別の国のクラブに移籍することは、サッカーとは関係ない親の事情、あるいは選手の家から半径100 km以内などの特殊事情がある場合を除き原則禁止されている[7]。ただし、欧州連合(EU)内での移籍の場合は16歳から条件付で可能である[8]。
選手とクラブがプロ契約を結ぶ場合の契約期間は原則として、短くとも契約対象のシーズンの実質的な終了日までの期間、長くとも5年以内でなければならない[9][10]。当該地域のサッカー協会の規則で許されている場合にはそれ以外の期間の契約も認められるが、この最長期間を超える契約上の言及があったとしても、FIFAはこれを有効と見做さない[10]。現所属クラブとの契約満了の6ヶ月前から、プロ選手は別のクラブと自由に契約ができるようになる[11][12]。 サッカーにおいてプロフェッショナル選手が誕生したのは、19世紀から20世紀に掛けてのイングランドである[13]。当初のクラブは、街や地区、教会、企業、工場、パブなどのコミュニティーを単位として運営されていた。選手はサッカーとは別個の仕事を持っており、収入はここから得ていたが、クラブ間の競合が激しくなり、選手にもレベルアップが求められるようになると特に労働階級出身の選手に対して練習の時間を確保し、収入の道を絶たれる怪我を恐れずにサッカーができるような体制をとるため、サッカーをする事そのものに対して報酬(保証金)が支払われるようになった。これがプロフェッショナルプレーヤーの誕生である。 サッカーの競技・興行の運用規則については、1863年のイングランドにおいてのフットボール・アソシエーション (FA) の設立と同時に、初めて文書化された。このときは、パブリックスクールやそれらを母体とするチームによるプレーが主であり、アマチュアリズムが規範であった。 1880年代には労働者階級のチームが支配的となった。主に工場労働者からなるブラックバーン・オリンピック
歴史
プロフェッショナルプレーヤーの誕生と拡大
イングランド南部のアマチュア理想主義のチームと同国北部の工業都市のプロフェッショナリズムが浸透しつつあるチームとの差は、1884年に顕在化した。プレストン・ノースエンド(本拠は同国北部)がアップトン・パーク(本拠は同国南部のロンドン)を破ってFAカップで優勝した際には、プレストン・ノースエンドの勝利は不当なプロフェッショナリズムによるものであるとして、アップトン・パークが結果を覆すことを求めて抗議した。これをきっかけにFAは分裂の危機に陥った。プレストン・ノースエンドはFAカップから撤退し、同じランカシャーのクラブのバーンリーとグレート・リバー(英語版)も後に続いた。ついには30を越えるクラブがこの抗議運動に加わり、主に同国北部のチームらによって、FAがプロフェッショナリズムを認めなければ対抗組織としてブリティッシュ・フットボール・アソシエーションを設立すると宣言された[18]。この18カ月後にFAは抗議を受け入れ、1885年7月にはイングランドにおいてプロフェッショナリズムが公式に認められることとなった[13][19]。
イングランドのクラブはプロ選手を雇用するようになったが、スコットランドサッカー協会はこれを禁止し続けた。その結果、多くのスコットランド人選手がイングランドのクラブへ移った。当初、FAはこれを防ぐために居住制限を設けたが、1889年にこれらは撤廃された[20]。フットボールリーグの初年度(1888-89)、優勝クラブのプレストン・ノースエンドには10名のスコットランド人プロ選手がいた[21]。スコットランドFAは1893年にプロフェッショナリズムの禁止を撤廃し、560名の選手がプロフェッショナルとして登録された[22]。